「地球はとっても丸い」プロジェクトの面々が心を込めてお届けしたエッセイです。
第1回 海の幸
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    連載「ニュージーランド便り」
    文・写真:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)


     連れ合いがニコニコ顔で帰宅した。その手にはビニール袋がぶら下がっていた。ずしりと重いそれを受け取った時、「えっ、またあ」と、心ない言葉が私の口をついて出た。

    「こんなにハンサムな奴が、僕を睨みつけるから、素通り出来なくなって、買っちゃった。ほら、この桜色、きれいだろう。鱗が銀色にきらきら光ってる」

    「今夜はふたりだけなのに。こんなに大きいの、二十人前はあるわ、パーティでもあるまいし。お上品盛りの料亭なら、ざっと五十人分の宴会ね」

    「これが一番小さかったのだ。ニュージーランドの小鯛だ。こいつで一杯やりたいから、早いとこ、頼むよ」

     もうすっかり夕食を整えていたのに、とんだ番狂わせ。口ではぶつぶつ文句を言いながら、私は、仕舞ったばかりのまな板や包丁を取り出し、まな板から大きくはみ出た鯛を前に、「とりあえず、頭を兜煮、半身にして刺身を少し取って後は昆布〆。もう半分から二切れ取って塩焼きに、残りは冷凍にするしかない」と、うきうき心づもりしている自分を発見した。

     ニュージーランドに来てから、こんな番狂わせがしょっちゅうあって、悲鳴を上げる。生まれてこの方、市場に行ったことも買い物をしたこともないお方が、ここに来て急に市場に興味を持ち、仕事の合間に市場を覗いて、目に付く物を算用なし手当り次第に買って帰り、すぐに食べたいとのたまふのだ。これは、台所を預かり段取りを整えている身にとっては、迷惑千万。それには買い物の楽しみを奪われた怒りも加わっている。

     時たま、しょんぼり手ぶらで帰って来ることもある。

    「市場に鯛が一匹もいないんだ。鮪と伊勢エビは頭だけ。あるのは、フィシュ・アンド・チップス用の魚の山。上等なのは、全部日本へ行ったんだ。日本へ何十倍の値段で売ったから、ここにいる僕たちの分が残っていないんだ」

    と悔しがる。そう、日本人が好む特定種の魚は、高品質のもののほとんどが日本へと輸出される。

     亜熱帯から亜南極圏にまたがるニュージーランドの漁業海域は、魚介類の宝庫。1000種以上の魚が生息しているそうだ。そのうち、漁業を支えているのが100種くらい。日本に輸出するようになってから、この国の魚の取り扱い方が、飛躍的に向上したそうだ。70年代まで、種類などおかまいなく獲った魚を、一旦冷凍し、あとで解凍したものを、鮮魚として売っていたという。今では肉に比べて割高になったが、鮮度は抜群。日本海の荒海で揉まれた魚に勝る魚はないと、思い込んでいた私が舌を巻くほど新鮮、身も引き締まり脂がのっていて美味しい魚が店に並んでいる。「新しければ、醤油でさっと煮ればいい」と言っていた祖母の言葉通り、あれこれ調味料はいらない。

     以前住んでいた英国では、目を背け鼻を摘んで魚屋の前を走り過ぎていたのが、ここでは、魚屋の前に来ると、目が輝き、立ち止まってどれだけ眺めていても見飽きない。用もないのに、魚屋に行ってみたくなるのだ。そこで、色も姿も美しい鯛に、汚れを知らない澄んだ目で睨まれれば、私だって、うっとり恋に落ち、気がつけば買っていた、という羽目に陥いるのだ。

     日本では、お祝い事でしか見かけないような大鯛が、市場に他の魚と共に並んでいる。特にこの時期は数が多い。うだるような暑さで、結婚式もない日本から、注文が来ないのだろう。逆に今ここは冬、身が引き締まっていて、格別美味しい。でも、好みが違うのか、さほど人は振り向かない。ありがたがるのは私たちくらい。こんなに贅沢に食べて罰が当たらないかしら、誰も買わないなら、私たちが買ってあげなきゃかわいそう、そんな気持ちにもなって、買ってしまう。

    目をひんむいてこちらを睨む大鯛

     だが、日本の魚屋のように、さばいてはくれない。どんなに頑丈な大物でも、自分で挑戦するしかない。出刃包丁を買い、刺身包丁を買い、荒さの違う研ぎ石三つも買って、日本から持って来た。俄に道具は揃っても、腕は俄に上がらない。皮が剥がれ、身と骨がくっ付いたり離れたり、寸法もまちまち。折角の伊達姿も私の手にかかると台無し。どれだけ見場が悪くても、舌鼓を打ち満足の笑みを浮かべる様子に、家族ならでは、と心の中で感謝する。

     ニュージーランドでも、健康志向で、魚の消費量が上がり、政府が、年間漁獲高や漁獲寸法を設定し、厳しい管理体制を整えている。鯛など日本人が欲しがる魚は獲り過ぎだとも聞く。子どもの頃に味わった、魚を食べる喜びを、ここで再び、家族と分かち合いながら、汚染のない海を保ち、豊富な海の幸を次の世代にそのまた次の世代にと、ずうっと繋げて行くには、どうしたらいいのだろうと、ふと、考えさせられる。


    ≪いそのゆきこ/プロフィール≫
    英国からニュージーランドに移り住んで、三年が過ぎた。はじめのうち、見るもの聞くものみな好奇心だったが、いつの間にか、生活者として、ここにとっぷり浸かっている自分に気づいた。そんな生活者の目で見る身近な事柄を、お便りできたら、と思う。著書:BBC TALK JAPANESE
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    第2回 キーウィ・セーバー
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      連載「ニュージーランド便り」
      文:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)

       「キーウィ」と聞けば、果物のキーウィを思い浮かべる人が多いでしょう。ニュージーランドの特産物として、世界に定着していますが、原産地は中国だそうです。これを栽培し輸出するにあたって、その色と形が、この国にしかいない鳥、キーウィに似ていることから、命名されたと聞きました。キーウィは絶滅に瀕している鳥の一種、「国の象徴を絶滅させるな」ということで、国を挙げてその保護に必死です。
        
       ニュージーランドの人々は、自国に関する大切な事柄を「キーウィ」に例え、そう呼ぶことを好むようです。そういえば、自分たちのことも「ニュージーランド人」よりも「キーウィ」と呼びます。その呼び方に鳥肌か立つと、中には嫌う人もいますが、多くの人が好んで使っています。また、国際金融市場では、ニュージーランド・ドルのことも「キーウィ」というそうです。

       老後や住宅取得のために国民に貯蓄を奨励する「キーウィ・セーバー」制度が今年7月から開始され、また一つ、「キーウィ」が増えました。

       「キーウィ・セーバー」は、老齢年金を補充する制度で、この国初の所得控除で行う個人型確定拠出年金制度であり、初めて住宅を購入する人のための財形住宅貯蓄でもあります。その仕組みは、給与から4パーセントか8パーセントを天引きした掛け金を拠出して運用口座に積み立てます。加入や解約、運用管理機関や運用計画の選択は自己責任で行われます。積立金は、年金の受給年齢の65才に達しなければ、運用出来ませんが、初めての住宅購入時か医療費など多額に必要な緊急時は、引き出せます。全ての加入者に、政府から1000ドルの助成金が無税で給付され、最初の住宅購入時には、最高5000ドルの住宅助成金が給付されます。また、掛け金が税額控除の対象となるため、銀行預金よりも得とうたっています。

       私がここに移り住んだ2004年当時、住宅価格が過去3年間で5割上昇したと聞きました。地価も上がっています。2004年に1NZドルの為替レートが70円台だったのに、今年7月には、90円台です。今年でもう4度目の公定歩合が引き上げられ、金利はついに8.25パーセントになりました。

       それが日々の生活にどう作用するのか、経済のニュースはよく理解出来ない私ですが、近所のあちこちの家が売りに出され、売却済の看板が出たかと思えば、すぐにまた売りに出されているのを目にすると、おや、何か変、おかしいと、気付かないではいられません。住宅購入時、専門家と相談の上ローンを組んだにもかかわらず、インフレ、高金利、NZドル高など予測の難しい経済変動で、ローン返済能力を越えてしまい、泣く泣く手放さざるを得ないということです。若年や低所得所帯の持ち家率が急速に低下したため、政府は「キーウィ・セーバー」導入に踏み切ったということす。

       これによって、貯蓄への意欲が希薄なキーウィ、ニュージーランドの人々を貯金こつこつ積立型に変えることができるのかが、鍵のようです。そうなれば、高金利政策への圧力が下げられ、経済成長の速度を制限でき、パンク寸前のニュージーランド経済が助かるというのです。

       「就職すれば自動的にキーウィ・セーバーに加入でき、あなたは、4パーセントにするか、8パーセントするかを選ぶだけです」

      これは政府の広告文です。貯蓄を奨励すると共に、働くことも促しています。働こうと思えば働くことができるのに、仕事をしないで生活保護を受け、日長一日、特大テレビ画面の前でむしゃむしゃ食べながら、過ごしている健康で若い人が、多くいるからです。キーウィ・セーバーがきっかけとなって、「働くなんて考えただけでも頭が痛くなる、貯金なんてまっぴら」という人が、「働くってすばらしい。テレビを観て食べているより何倍も面白い」と、意識変革ができたら、どんなにか豊かで幸せな社会になるでしょう。


      ≪いそのゆきこ/プロフィール≫
      一円玉や2ペンス玉、5セント玉をちまちまと数える生活を、ずっとしてきました。お腹いっぱい食べて心地良く眠られる一日なら、幸せ、感謝でいっぱいの日々の積み重ね。ニュージーランドに移って、美しい雲を眺め、うとうと昼寝をしながら、時々半分目を開いて、幸せな人を眺めて満足、不幸せそうな顔を見れば、どうしたのかしらと心配になります。

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      第3回 また、WOWの季節がやって来た
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        連載「ニュージーランド便り」
        文:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)


         今、ウェリントンは、WOW(World of Wearable Art)の季節です。「身に纏える芸術」とでも訳すればいいのでしょうか、WOWはファション・ショーではありません。「壁から絵を取り出し、人間の体を画布として描いた動く芸術の祭典」と、主催者側は説明しています。これを目にし、そこに身を置くと、たちまち不思議な世界に誘い込まれ、己の想像性が掻き立てられる、他に例をみない舞台芸術です。振り付け、踊り、音楽、照明、それに特殊効果を駆使して、人体の形と動きが、身に纏うものと一体化して、観る人を空想の世界に誘い込みます。

         私が初めてウェリントン空港に降り立った時でした。犬を連れた貴婦人のポスターのようなものが目に飛び込んできました。本物の女性の写真で等身大よりやや大きめですが、こちらに向かって腰を振り振り優雅に歩いて来るのです。その後を小さな犬がちょこまかと付いて来る、そんな錯覚をおぼえました。身に纏っている帽子もドレスも、無色で布ではありません。生きているとしか思えない犬も、その色その素材なのです。しかも素材は、どこかで見たもの、いつも見慣れているもののような気がし、何かしらと頭を傾げつつ、不思議な気分で通過したのでした。

         ふと開いた新聞に、地元の学校の生徒が作品作りに勤しむ抱負を熱く語っている記事が出ていました。それはWOW賞に応募する作品でした。その下には、国内は勿論のこと、世界に名の通った欧米やアジアの服飾デザイナーや芸術家の名が挙がっていました。みんなWOW賞に応募する人たちです。この賞は、芸術や服飾などとは無縁な普通の人も応募出来、一流の芸術家やデザイナーと同じ土俵で審査される民主的なコンテストです。

         ニュージーランドに住んでいると、「平等」という言葉をよく耳にします。「平等だから、私にも一言いわせてくれ」と、盛んに発言します。どれだけ話が堂々巡りをし、会議が長引いても、じっと耳を傾けなければなりません。同様に、このような催し物にも平等の機会が与えられるのが、お国柄のようです。

         その新聞にもう一つ、2003年の最優秀作品も載っていました。私が空港で見たあの貴婦人と犬です。私はここで始めてWOWの存在を知ったのです。

         貴婦人の身に纏っているものと犬が段ボール箱の紙で出来ていることも分かりました。あの荷物を入れる箱の固い紙、その内側部分の波状紙です。どうしてあんなごつごつした物が、優雅でしなやかで活き活きと動いて見えるのかしらと、私は不思議で仕方がありませんでした。ちなみに今年の優勝作品は、刈った羊毛を入れる袋を利用して作ったそうです。

         ウェリントンと海を隔てた南島の、ネルソンという小さな町の彫刻家、スージー・モンクリーフが、1987年に「舞台で動いている芸術、芸術と人間が一体化する」試みを、地元の画廊でしたのが始まりだそうです。

         それが評判を呼び、翌年また翌年と、年を重ねる毎に成長し、モンタナ・WOW賞ショーに発展しました。そして数年前、首都ウェリントンに舞台が移って、世界中から人が集まるようになり、WOWはニュージーランドのアイコン、国を代表する行事として、更に発展し続けています。

         街の群衆に混じってWOWの行列を見学していた時でした。私の頭越しに、「嗚呼」とか「ワァー凄い」とか盛んに感嘆の声が発せられるので振り返ると、長身の女性が、サングラスをちょっとずらして私を見下ろしました。その途端、「あなたもここに来ていたのね」と私を抱きすくめました。私はびっくり、全く見ず知らずの人だったのです。彼女はニューヨークから来た服飾業に従事する人で、パリやミラノのファション・ショーでいつも顔を合わせる日本人と、見間違えたのだそうです。人違いと知った彼女は大笑い。それが縁で、行列の後、近くの喫茶店でおしゃべりとなりました。

         彼女はもう3年連続WOWを見に来ているそうです。服飾の世界に入って40年、もうショーは見飽きた、し飽きたけれど、ここに来ると、はっとするような閃きやヒントが得られ、次の仕事の糧となると、彼女はいうのです。磨き抜かれ築き上げられた伝統技術、洗練された文化、どこに行っても、それらの競い合い、互いに影響したり融合したり。でも、ここではそれがなく、全く無から感性の赴くままに作品が作られ演出されているのが、たまらない魅力といいます。

         一見、廃物利用の学園祭作品のような物が多い中に、きらりっと光る何かが見えるそうです。ここは人間の感性とq想像力と創造力の限界に挑む実験場のような所だといいます。ウェリントンは芸術の街といわれるだけあって、単にWOWショーの舞台だけではなく、街のあちこちで、それが感じられるというのです。

         もう一度、人間の原点に立ち返って、物事を見つめ、感じ、創造する、そんな機会と場こそ、成熟した現代社会に生きる人々に必要なのかもしれません。それを求めて、このWOWに、世界中から人が集まるのでしょうか。


        ≪いそのゆきこ/プロフィール≫
        2004年、ニュージーランド・ウェリントンに移り住んで以来、海外在住ライター広場や地球丸に参加。生活の中で、折々目にし耳にし肌に触れることを、鉛筆を舐め舐めひらがなを思い出しながら書かせてもらっています。最近の稚文は The Japan Times Juniorや AERA with Kidsなどに掲載。著書: BBC Talk Japanese
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        第4回 母心と娘心
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          連載「ニュージーランド便り」
          文:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)


           ニュージーランドの若者の日本研修旅行に同行した時が、私のリナ一家との出会いでした。朝5時空港集合なのに、日頃のんびりしている若者のほとんどが、ずっと早くから来ていて、さすが今日は心がまえが違うと、私を感心させました。でも一人だけ、なかなか姿を見せないのが、リナでした。

           寝過ごしたのかもしれないと思い、電話しようとした時でした。
           
          「すみません。遅くなりましてー」と叫びながら、4、5才くらいの男の子と手をつないだ小柄な女性が走って来ました。次いで、もう少し大きな男の子とリナも。その女性が肩でハアハア息をしながら、「夕べ、姉さんを見送りに行くのだと、あんなに楽しみにしていたのに、なかなか起きなくて」と男の子の頭に手を置くと、その子は恥ずかしそうに彼女の背後にしがみつきました。そこにスーツケースを持った男の人と、赤いリュクサックを手にした10才くらいの男の子が到着。一目でこの一行がリナの家族と分かりました。三人の弟さんは、背丈が少しずつ違うだけで姿形がそっくり、思わず絵本の金太郎を想い浮かべたほど、丸々と健康そうに育っていました。子どもたちとは対照的に小さく痩せた両親、両親より遥かに背が高いリナ。日本研修に旅立つ若者の中で、家族の見送りを受けたのはリナだけでした。でもリナは気まずそうに友だちの陰に隠れ、わざと家族を無視している様子でした。

           別れ際、「私たちの娘が日本に行けるなんて、私はあの子の年に、あの子を生んだのに、大きなお腹を抱えて、ジャングルの中を逃げ回っていたのに」とつぶやき、涙をはらはらと流したお母さんにも、リナは一瞥もせず、機上の人となりました。

           一ヶ月近い研修を終えて帰国した時、またリナのお母さんと三人の弟さんが空港に出迎えていました。お母さんは、「主人も来るはずでしたけれど、仕事で」と私に挨拶しかけたものの、「無事に帰って来て」と目が涙で潤み、言葉が途切れてしまいました。

           リナの大きなスーツケースがベルトコンベアーから流れて来ると、弟さん二人が走り寄って、抱え下ろしました。待ちかまえていた一番小さい弟さんが、スーツケースを開けようとし、慌てて止めた一番上の弟さん、「家に帰ってから」と宥めたのは真ん中の弟さん。それを見ていた仲間の一人が思わず「かわいい」と言うと、リナは顔を真っ赤にして、その場からいなくなりました。

           リナの両親は、カンボジア難民でした。両方の親兄妹も親戚も、肉親は内戦でことごとく殺されたそうです。

           1965年に始まったベトナム戦争に振り回され、30年も続いたカンボジア内戦。1970年のクーデター、1979年のプノンペン陥落。1980年頃から、ポル・ポト派による200万人以上(当時の国民の1/6以上)の大虐殺のニュースが、世界を駆け巡った記憶が、蘇ります。

           教育や技術、地位のある大人は都市から農村に強制移住、知識階級は反乱を起こす可能性ありという理由で皆殺し、反乱を企てた農民も殺害。子どもは親から引き離されて、農村や工場での労働や軍務を強いられ、学校教育が受けられなかったと、聞きます。人々は、地雷原やポル・ポト派兵士による攻撃・暴漢などに遭う危険を冒して、タイ国境を目指しました。

           リナの両親もその中にいました。ジャングルで食べられるものを探して空腹を満たし、身重の体を沼や川に浸し、根や蔓に引っかかって転びながら、何日も彷徨い歩いたそうです。タイ国境にあふれた難民にとって、第三国定住は夢、生きる希望でした。タイ政府から、第三国定住の面接資格証を受け、各国政府に定住を申請、面接を受けました。定住許可が得られれば、一時滞在施設で、定住先に適応できるよう外国語教育を受け、定住国の難民受け入れ施設へ向けて出国。

           リナの両親もその過程を経てニュージーランドに来ました。着いて間もなく、リナが誕生し、お父さんはそんな妻子を抱えて、食堂の厨房で働き始めたそうです。

           ニュージーランドに来たカンボジア難民で、未だにあの悪夢から立ち直れず、新天地にも馴染めず、生活保護を受けて、虚ろな日々を送っている人が少なくありません。それに比べ、リナ一家はいち早く生活の基盤を築き、活き活きとしています。お父さんは今では、四つのレストランの経営者です。子どもも増え、高等教育を受けさせることが出来るようになったのが夢のよう、嬉しいと、お母さんは涙します。
           
           リナが今年大学を卒業しました。卒業式に、カンボジア女性の正装、サンポット・ホールという絹絣の腰巻きに絹織りの上着を着たリナは、振り袖やチョゴリ、サリーなどの民族衣装での出席者の中でも、ひと際あでやかで、相変わらず恥ずかしそうに伏し目がちなのが、かえって美しかったと、聞きました。もちろん一家揃ってリナの晴れ姿を見に行き、お母さんの涙腺は緩みっ放し、お父さんも目頭を何度も押さえていたそうです。

           残酷で残忍な戦争で、まだ子どもの時分に肉親から引き離され、学校に行けないどころか、生命の危機に立たされ通しだった青春。新天地に来て新たな家族を作り、生活の地盤を築いたリナの両親。家族の絆を何よりも大切にし、平和の中で、子どもを育てる喜びをかみしめ、感謝し涙するのを、大げさな、と笑えるでしょうか。そんな両親を恥ずかしがる娘の若さ。でも社会人となったリナが、両親を誇りに思い、人々に両親のことを堂々と語る日も近いことでしょう。

          ≪いそのゆきこ/プロフィール≫
          2004年、ニュージーランド・ウェリントンに移り住んで以来、海外在住ライター広場や地球丸に参加。生活の中で、折々目にし耳にし肌に触れることを、鉛筆を舐め舐めひらがなを思い出しながら書かせてもらっています。著書: BBC Talk Japanese
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          第5回 「バッチこそ、愛しき我が家」
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            連載「ニュージーランド便り」
            文:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)

             南半球のニュージーランドは今、夏の真っ盛り、一年で一番いい季節。日頃コンクリートのアパートに住み、コンクリート・ビルの中で働いているウェリントンっ子は、窮屈な背広と靴を脱ぎ捨てて、田舎で家族や友だちとのんびりします。

             近くにしゃれたレストランがあるわけでもないのに、持参するのは、葡萄酒やビールくらい、クリスマスに焼き肉やハムを用意するのは、上等の部類。水辺で魚や貝を採って自給自足に近い生活をする、これがウェリントンっ子の夏休み。西洋人が島を裸にし、大量の動物を持ち込んで百年余、最近水の汚染が危惧されていますが、そんなことは平気、衛生状態などあまり気にしません。夜は、一家一枚の毛布に包まって野宿、雨が降れば、頭だけでもテントに突っ込むのはましな方、バッチ(Bach)があればお城気分。

            ニュージーランドの典型的なバッチのある風景<br />

             バッチは、手作りの掘建て小屋のこと。開墾当時、密林の中での作業や仮眠、釣りや猟をする小屋。家族や仲間と一緒に、あるいは、一人でひっそり過ごす仮小屋。そんなバッチのある風景が、ニュージーランドの田舎の象徴。

             第二次世界大戦直後、バッチは、見晴らしの良い海辺や湖畔に、盛んに建てられました。人びとが、日常の生活、仕事から逃れて、休暇を楽しむようになったのです。といっても、経済状態が豊かになったという意味ではありません。道路がある程度整備され、移動しやすくなったのです。

             浜辺を見つけて、子どもに泳ぎを教え、貝や魚を採る。そこが気に入れば、漂着した難破船の破片や流木、古いトタン板の端切れなど、その辺で手に入るものなら何でもかき集めて、お金をかけずに、自らの創意と工夫でバッチを建てたのです。「大抵一晩で家の大部分が建ち、後の20年で少しずつ完成に近づけ、永遠に完成しないのがバッチだ」と冗談半分、でも誇らし気に説明してくれるのが、ニュージーランド人らしいところかもしれません。

             ここにいると、No.8 Wire Syndrome、No.8 Wire Mentality、No.8 Wire Spiritなどという言葉をよく耳にします。それらを「八号線魂」とでも、訳したら良いのでしょうか、つまり、ここは自己流を尊ぶ人の多いところ。「八号線魂」は、ニュージーランド人を良い意味にも悪い意味にも言い表す言葉です。入植時代、牧場の囲いを作った針金の八号線(No.8 Wire、直径3ミリ程)、この針金さえあれば、他人の助けや指図を受けずに、自分の知恵と工夫で何でも作り、家も建て、修繕してきたのです。この逞しさを誇りに思う人がいる一方、針金で応急処置をして急場を凌ぎ、そのまま応急処置に満足して、それ以上の完成度の高さや完璧を目指さず望まないのを、向上心がない、発展性がないと、批判する言葉でもあるのです。

             1970年代に海外に学んだ人たちと、時々おしゃべりする機会があります。その人たちが口を揃えていうことは、「バッチに帰りたい」です。

            立派に生活出来るバッチの内部

            「バッチはこの世で、一番心地良いところ、心安らぐ愛しの我が家だ」

             というのです。戦後間もない時期に子ども時代を過ごし、バッチの思い出が詰まった人たちです。海外生活で淋しくなった時、仕事で行き詰まった時、必ず思い出すのが、バッチだといいます。錆びてぼろぼろになったトタン屋根から星が見えただの、七人兄妹が一つの寝台に寝ていて、夜中に雨が降ってびしょ濡れになったのと、懐かしそうに話すのです。普段は、売り物にならない羊肉が食卓に上るのに、クリスマスは家族みんなで釣りをして、魚がクリスマスの御馳走で、残った魚を薫製にしていたら、バッチが先に薫製になったなど、思い出話がつきません。

             「バッチは、困難を自分で解決する知恵を与えてくれる場所、学校だ。砂浜を走り回り砂だらけになった体を、親父の作ったシャワーが洗い流してくれた。空き缶の底に幾つもの穴を開け、川から汲んで来た水をその中に入れて、木の枝に吊るすと、即席シャワーの出来上がり。身近にある物で何でも作り出し修繕した親父のごつい手。困った時、大学で聞いた高名な教授の講義を思い出しても、何の役にも立たないが、ろくに自分の名前も書けなくて、八年も海外にいた息子に、一度も手紙を書かなかった親父の方が、遥かに役立つ生きる知恵と能力を授けてくれた」と、酔っぱらう度にいう人もいるくらいです。バッチに帰って、親父の手の跡を眺めていると、仕事で抱えているどんなに難しい問題も解決の糸口が見えて来る、というのです。

             今では、一流建築家設計のしゃれたハイテク操作のバッチも多くありますが、それは観光客向け。多くのニュージーランド人は、そんなものには目もくれず、父さんや爺さんの建てた半壊れのバッチをせっせと修繕し、そこに家族が集い、ろうそくを消して満天の星を眺めます。それは、ここで生まれ育った人以外、誰も真似の出来ない、最高に贅沢なクリスマス休暇なのもしれません。

            ≪いそのゆきこ/プロフィール≫
            2004年、ニュージーランド・ウェリントンに移り住んで以来、海外在住ライター広場や地球丸に参加。生活の中で、折々目にし耳にし肌に触れることを、鉛筆を舐め舐めひらがなを思い出しながら書かせてもらっています。著書: BBC Talk Japanese




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            第5回 風来坊、パディ
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              連載「ニュージーランド便り」
              文:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)


               大通りを歩いていると、人があちこちに立って何かを待っている様子。ウェリントンでは、街頭でよく映画の撮影が行われて交通規制になることがあるので、また映画の撮影かしらと思いつつ、通り過ぎようとした時でした。向うから黒塗りクラシック・カーの行列が来て、人々が道路側に我先にと駆け寄り歓声を上げ盛んに手を振り出しました。車の中からそれに答えている一人は、ウェリントン市長でした。これは、ニュージーランドで最も有名な犬、パディの伝記が出版されたのを記念し、彼を讃える行列でした。

               世界大恐慌、第二次世界大戦へと突っ走った、人々の暮らしが苦しくなるばかりの暗い時代に、一匹の犬が人の心を捉え、ウェリントンはいうに及ばず、ニュージーランド中の人々の想像を掻き立てました。

               1928年頃のことです。パディの主人だった少女の父親は船乗りでしたから、子犬のパディはいつも少女と一緒に父親の送迎に、波止場に来ていました。その少女が肺炎になり3才半で亡くなると、パディは淋しく、少女を捜しに波止場に来ました。でも少女は見つからず、そんなパディの姿を波止場で目にする人々が、彼をかわいがりました。パディは、子どもたちは勿論のこと港湾職員や船乗り、街を走るタクシー運転手などと仲良くなり、やがて少女のいない家には帰らず、波止場を住処とするようになりました。

               パディが野犬刈りに掴まりなどすると、それを目撃した子どもによって、直ちにパディをかわいがる人々に通報され、船乗りがパディの解放を談判し、タクシー運転手が一ポンド札を役人に叩き付けて、パディを受け出すといった具合です。何度目かのそれで、タクシー運転手たちが、交代でパディの毎年の登録鑑札料を払うことを決め、餌も様々の人が交代で与え、波止場の小屋に心地良い寝床も用意して面倒を見るようになりました。

               パディは、こうした人々に支えられながら、自由と自立に目覚めて行ったのです。

               パディの冒険心は驚くべきものでした。一人で、いいえ、一匹で電車に乗り、友だちのタクシーで、ウェリントン市内や近郊を回るのはいつものこと。気が向けば船に乗って、ニュージーランド中の港を回ったばかりでなく、二度もタスマン海を渡ってオーストラリアのシドニーに行きました。パディはニュージーランドで最初に飛行機に乗った犬にもなりました。ジプシー・モスに乗せてもらったのです。誘拐されて九死に一生を得た経験もあります。

               パディの話題は、国内はもとより海外の新聞にも載りました。オークランドの人々はウェリントンにそんな犬がいることを羨ましがって、パディをオークランドに移そうと企てたとか、パディがサンフランシスコに行って戻って来たなどとの噂まで立ちました。街のパブには、パディ専用のビールの皿があります。お気に入りのパブで、彼は毎日昼食をとったのです。パディはいつも明るい話題を振りまいてみんなを楽しくさせ、市民全体が彼を心から愛したのです。1935年、ウェリントン市はパディに自由市民の栄誉を与えました。

               またパディは、夜警助手として港湾局職員に正式に採用されました。略奪者、密航者、鼠などの取り締まり任務です。

               1939年、パディが13年の天寿を全うした時、多くの人が詰めかけ、街中の黒塗りタクシーが先導する葬列を見送って、ウェリントンの通りという通りが交通マヒに陥り、その日、街の機能が止まったということです。

              パディの記念碑「人と犬の水飲み場」


               1945年に建てられたパディの記念碑、「人と犬の水飲み場」は、英国ロンドンの爆撃破壊されたウォーター・ルー橋の煉瓦をわざわざ運んで作られました。その費用はパディの友だち、彼をかわいがった仲間たちが出し合ったそうです。

               私が見た行列は、パディが亡くなって70年近い今も尚彼を愛する人々が催したのです。彼が最後に乗ったタクシーと同じ車種が、この行列の中心をなしていました。1930年フォードA型サルーン車で、アレックス・ガルビン監督の映画、”When Night Falls”にも登場した車です。行列は、市長をはじめ、子どもの頃パディと遊んだ人、パディに似た犬などを乗せて市庁舎を出、パディがねぐらとしていたクィーンズ波止場の、ウェリントン市海洋博物館前にある記念碑、「人と犬の水飲み場」までの行進です。

               風来坊、パディはここに永遠に生きています。毎日のように、子どもたちがバスに乗って見学に訪れています。こうして時代が変わり人の代は変わっても、パディと人々の心の交流は続いています。ここに心温まるものを感じるのは、私だけではないようです。



              ≪いそのゆきこ/プロフィール≫
              2004年、ニュージーランド・ウェリントンに移り住んで以来、海外在住ライター広場や地球丸に参加。生活の中で、折々目にし、耳にし肌に触れることを、鉛筆を舐め舐めひらがなを思い出しながら書かせてもらっています。著書: BBC Talk Japanese




              | 『ニュージーランド便り』/いそのゆきこ | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              第7回 蝉時雨
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                連載「ニュージーランド便り」
                文:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)


                 蝉時雨、ふと開いた瞼にぼんやり写った天井の漆の小豆色。夢が現に変わり、欄間の向こうの光がだんだんはっきりして来て、龍が現れたかと思えば、今にも雲間から飛び出して来そう。恐ろしくなって頭を横に向ければ、床の間の掛け軸の達磨さんが私をめっと睨みつけました。はっとして反対側を向けば、開け放たれた部屋を通り抜けるそよ風に吹かれて、暖簾の亀が波間をすいすい泳いでいました。見慣れた辺りの様子、いつもの昼寝からの目覚めでした。

                 簾越しに見える庭、蹲いの上に何かが止まっています。私はようやく起き上がり、縁から沓脱ぎ石の上にある庭下駄を突っ掛けて、庭に降りました。その途端、大きな下駄から足がスポッと抜け、飛び石に着地するや、アチッと飛び退き、苔の上に足が埋まりました。真夏日で石の火傷しそうに熱いこと、苔の暖かくふかふか柔らかいこと。蹲いに止まっているのは蝉の抜け殻。摘むとカサッと乾いた音がするそれを手に、下駄を履き直し、飛び石を伝って裏庭に出ました。大きな欅の根元近くの地面には、所々穴があいていて、そこを指でほじると、蝉の幼虫がいるのです。

                「そっとしといてあげまっし(あげなさい)。何年も地面の中におったもんを無理矢理出したら、あったらもんな(尊い)命を痛めつけてしもう。もうすぐ自然に出て来るがやさかい」
                と、背後から聞こえるのは祖母の声のよう。

                 掘るのを止め立ち上がると、欅の幹に茶色い蝉の幼虫がいて、背中が割れ頭を半分出していました。羽化です。私の目はもうそこに釘付け。薄青緑の体がゆっくりゆっくり出て来るのです。縮んだ羽が少しずつ広がりはじめました。触れば、瞬く間に壊れてしまいそうなほど、柔らかく脆そう。薄い紗のような羽の中に、葉脈と同じ青緑の脈が見え、体もまだ青白く透き通ったまま。それからだんだん色を増し、茶色が濃くなって来ました。私は息をのみ胸ときめかせてずうっと見つめていました。

                 ニュージーランドで初めて蝉の声を聞いた時、まるで幼い頃に戻ったような錯覚を覚え、懐かしさがこみ上げて来て、ここが身近に感じました。目を瞑れば、蝉時雨を子守唄に私を夢心地にしてくれるのです。でも庭のない貸家住まいでは、その姿はなかなか見られませんでした。

                 家族が出かけ私一人家に残った日曜日、風の街といわれるウェリントンには、めずらしく風が凪ぎ、掃除日和となりました。帚を手に、明け方まで荒れ狂っていた嵐に、枝共々引き千切られデッキに叩き付けられた木の葉を掃いている時でした。少し色薄だけれど、深緑の葉に混じって、一見、葉と見間違うようなものがいました。寿命が尽きたのか、嵐に打ちのめされて命が絶たれたのか、動きません。

                 蝉でした。子どもの頃、日本で見慣れた茶色の油蝉より、ずうっと小柄で指先程しかありません。色美しい草色の体、白く透き通った羽。それは、まるで平安貴族の狩衣姿のように華奢で気品に満ちた姿でした。私は思わず手に取り「あなたがニュージーランドの蝉なの」と、語りかけました。

                 デッキ下の谷から立ち上がって来る霧のような蝉時雨を全身に浴びながら、私はいつの間にか、蝉を掌に椅子にもたれてうとうとしていたようです。

                 家族の帰宅で目覚めました。

                「まだ鳴いている。うるさいなあ、あの蝉。どうにかならないかなあ。この国はどこもかしこも、あの騒音ばっかり。頭がおかしくなる」

                 図体だけが大人並みの子どもの帰還第一声でした。私は今しがたまで見ていた夢が一度に消え、そういう我が子が遠い異国人に見えて、訝しげに見上げました。同時に昔ハワイで遭った年配の日系二世のことを思い出しました。日本に行ったことがないのに、美しい日本語を話し古文をすらすら読む人でした。まだ親元を離れて間がなく海外経験の浅かった私は、そんな彼女に母か祖母のような親近感をおぼえました。ある日「蝉って何、源氏物語に出て来るけど」と私に聞いた彼女は、「蝉とか鈴虫とか蛍とか、日本の人は変な虫で泣いたり笑ったり。私、もののあわれなんてちっともわからない。気違いじみているとしか思えないわ」といいました。その途端、彼女が遠い異国の人に見えたのです。違う風土に生まれ育ったのだから当たり前、と頭では受け止めるものの、心では違和感を拭い去れない幼かった私。

                 あの時の戸惑いと同じものを、目の前の我が子に感じる自分に、もっと戸惑いながら、

                「ほんとによく鳴いているわね。でも蝉は何年も土中にいて、地上に出てきて鳴けるのは、ほんの数日だけだそうよ。思い切り鳴かせてあげたいと思わない。これが聞けるのももうしばらく、夏が去ったら、いなくなるもの」

                 と答えると、不服そうに口を尖らせる我が子が哀れに思え、蝉取りの楽しみ一つ味わわせてやれなかった後ろめたさが、こみ上げてきました。羽化する瞬間を息をのんで見つめた幼き日の感動を伝えることの出来ない歯痒さ。大抵の日本人が先祖代々感じてきた想いを、心の襞のようなものを、日本人でありながら、他の多くの日本の人と共有出来ない悲しさ。異なる時と場を生きる日本人が、違う経験や想いを交換し合い、互いの世界が広がると感じるのは錯覚、本当は広がった分だけ浅くなり、違うものを得た分だけ持っている何かを失う、許容の限界を悟る寂しさ。世界を広げることばかりにかまけていて、肝心要の心の芯を次の代に伝えることを怠った罪悪感に襲われるのでした。


                ≪いそのゆきこ/プロフィール≫
                2004年、ニュージーランド・ウェリントンに移り住んで以来、海外在住ライター広場や地球丸に参加。生活の中で、折々目にし、耳にし肌に触れることを、鉛筆を舐め舐めひらがなを思い出しながら書かせてもらっています。著書: BBC Talk Japanese

                | 『ニュージーランド便り』/いそのゆきこ | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                第8回 「南島旅行」その一
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                  連載「ニュージーランド便り」
                  文:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)

                   ニュージーランドは主に南島と北島の二島から出来ていて、南島の方が細長く大きいのに、人口は約百万、あとの三百万が北島に暮らしています。

                   「南島に行かずしてニュージーランドを語るなかれ」と人はよくいいますが、北島にいると、「南に下る」という言い方もよく耳にします。これには、日本の昔の陸奥とか蝦夷といった意味合いに似た響きがあるようです。

                   添いあいと私は、すでに南島の都市は何度も訪れていますが、南島全体を把握するまでには至っていません。それで、十日間の休暇を利用して、南島の西南端、世界遺産のフィヨルドランド国立公園まで、ちょっぴり芭蕉の奥の細道気分で、草鞋代わりに豆自動車を転がして行ってみることにしたのです。

                   北島の南端に位置するウェリントン港から、朝一番の連絡船に乗る順番を待っていると、隣に大きな車がいました。移動手術室です。西河岸には都市といえるような町はなく、従って病院もありませんから、急を要する手術にはこのような手術車が活躍するのです。

                   夜明けのクック海峡を横切りエルベル・タスマン国立公園の入り組んだ湾を進むこと三時間の船旅で、南島の入り口、ピクトンに着くと、禿げ山にされた痛々しい風景に涙しながらひたすら南下。その間、ガソリンスタンドを目にすれば、必ず給油。そうしないと、次いつ給油所に出会えるかわからないからです。ニュージーランドには高速道路もありません。

                   ようやく西海岸で一番大きな町、ウェストポート(人口六千人)に着き、遅い昼食。この辺りは白魚の産地とはいえ、水揚げしても輸出や大都市に運び去るためか、レストランなどない町で、フィッシュ・アンド・チップス店の白魚入りオムレツを頂くのが精一杯。

                   ここからは、日本海側の能登金剛か親知らず子知らず海岸、男鹿半島を行くような景色。ここに来てやっと森は原生林のまま、何本もの川がタスマン海に流れ出ていて、河原もどこか日本的。常緑樹ばかりの合間に樹木に負けない背丈の羊歯が大きく葉を広げ、フラックスと呼ばれる大名蘭の仲間が川辺に生えているという点が違うくらい。村らしい集落もなく、半壊れの掘建て小屋がたまにぽつんと目にとまる程度。日本なら、万葉の昔から歌や詩に歌われ歴史が刻まれて、歌碑や石碑が苔むしているはずなのに、ここは森から恐竜でも出て来そうな感じ。

                   西海岸はタスマン海と南アルプスに接する地帯、湿気を含んだ雨雲が山脈にぶつかるため、とても雨が多く、土砂降りになったり小降りになったり、その間にお日様が覗いて、狐の嫁入りを目にしながら走ること三日。ようやくこの国の最高峰クック山(三七五四メートル)が見えてきました。

                   山が間近に迫ると、目頭が熱くなり涙を堪えられなくなりました。ここで、落下石が知人の頭を直撃し、三十を越えたばかりの命を絶ったのです。半年前、希望に胸を膨らませてこの国に来た知人の笑顔と、米国からもの言わぬ娘を迎えに来た老いた両親の姿が交互に思い出されたのです。登山口の案内所にある遭難者名簿に、インクの痕も真新しく知人の名が載っていました。一つ上には、日本人の名がありました。ガイド付きで登ったにも関わらずの遭難です。神々しく美しい眺めですが、多くの登山者の命を奪った荒々しく危険な山でもあるのです。

                   クイーンズタウンは山々に囲まれた湖の街。夕焼けで桃色に染まった山を眺めながら、添いあいが言いました。

                  「スコットランドの人が、金を掘り尽くした後もここに留まったのが、わかるような気がする。この山や湖の姿、スコットランドに似ているとは思わないかい」

                  そういえば、宿の暖炉から石炭を焚く匂いがしていました。スコットランドの匂いです。

                  「しかし、絵葉書そのままの景色だけで人を留められるだろうか」

                  と添いあいは続けました。この景色に一目惚れして莫大なお金を投じて別荘を建てたものの、屋外スポーツ以外にすることとてなく、別荘が完成した頃には、飽きてしまって来なくなった知り合いのことが、彼の頭に浮かんでいるのです。一方私は、ここで生まれ育ったある一家のことを思い出しました。空っぽの別荘ばかりが多くなって住みにくくなったと嘆き、先祖から受け継いだ土地を売り払って、都会に出たい、ここは休暇で来るところで、毎日働き子どもを育てるところではないというのです。

                   山の稜線の最後の薄紅色が闇に飲まれてしまうのを眺めながら、人によってその度合いは違っても、人は自然と文化の両方に接していないと、心身の健康を保てないようだと感じつつ、次に目指すフィヨルドランドに胸が膨らむのでした。

                  ≪いそのゆきこ/プロフィール≫
                  2004年、ニュージーランド・ウェリントンに移り住んで以来、海外在住ライター広場や地球丸に参加。生活の中で、折々目にし、耳にし肌に触れることを、鉛筆を舐め舐めひらがなを思い出しながら書かせてもらっています。著書: BBC Talk Japanese
                  | 『ニュージーランド便り』/いそのゆきこ | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  第9回 「南島旅行」その二
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                    連載「ニュージーランド便り」
                    文:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)


                     南島西南端、氷河の浸蝕作用で出来たフィヨルドランド。私たちはここで3泊し、14ある峡江のうち、観光船が出ているダウトフル・サウンドとミルフォード・サウンドに出かけました。

                     ダウトフル・サウンドは、マナポウリ湖を横切ることから始まります。朝靄の湖に浮かぶ小島の間を、たった一艘で漕ぎ出すと、何だか早くも妙な気持ち。船のエンジンを止めると、辺りはひっそり。マナポウリとは、不安で悲しい心を意味するマオリ語だとか。一方で、壮大な水墨画の懐に抱かれているような懐かしさもあって、蕩けるような心地良さに浸り、

                    「霞み渡れる朝ぼらけ、長閑に通ふ舟の道…」

                    の謡と共に、竹生嶋のツレとシテが登場してくるような気さえするのでした。

                     バシバシッと雨粒が船のガラス窓を叩き付け、はっと我に返えると、船はウェスト・アームという入江の船着き場に止まっていました。ここに地下発電所があるのです。

                     船着き場からバスに乗り換えて、湖とダウトフル・サウンドを結ぶ道、ウィルモット・パスを行きます。人里離れたここに発電所を建設した60年代、機材運搬用に造られたとのこと。

                     と、もう私の目は道端に奪われました。ここは世界有数の多雨地帯、道の両側は自然が造った苔庭で、日本の庭師も舌を巻くほどの出来映えなのです。

                     降雨林は、リムなどマキ科の針葉樹が常緑の南極ブナと共に密生し、シダ類が生い茂っています。絡み合った根の下は氷河に削られた岩床。むき出された岩肌に苔が生えて厚い層を作り、木が育ちます。木は岩の上の柔らかな苔の中に生えていますから、雨が降ると、苔は大きくなった木を支えきれなくなって、木と共に岩の上を滑り落ち、絡まりあった根で木々は将棋倒しに滑ります、木雪崩です。岩肌がむき出しになり苔が生えて…を繰り返えす周期は100年から200年くらいだそうです。それが太古の昔から続いている原生林。誰かが「ジュラシック・パークだ」と叫びました。ところがここは今、趣味の狩猟目的で放された赤鹿とポッサムが繁殖して、森林破壊が深刻です。

                     バスはディープ・コーブ桟橋に着きました。ここから大型船に乗り換えて、いよいよダウトフル・サウンドに船出です。外海まで全長40キロ、両側の切り立った崖を見上げれば、雨で誕生したばかりの大小無数の滝が、迸り落ちています。 

                     乗客の思いは、一瞬なりとも絶景を見逃したくない、の一つ。みな船室で弁当を開いたものの、食べる間も惜しく、大急ぎでサンドイッチを頬張り飲み物で喉に流し込み、甲板へ出ようとした時でした、船がグラグラッと左右に揺れ、窓を打つ飛沫で外は全く見えなくなりました。席に戻った乗客の顔は蒼白、目はとろり、むっと両手で口を押さえる人も出てきました。

                     気がつくと添いあいがいません。近くにいた人が甲板の方を指差しました。呼びに行こうと戸を開けた途端、雨風がどっと打ちつけ、グラッと足下が揺れ、私は転倒して甲板に投げ出されました。その拍子にポケットからデジカメが飛び出し、バサッとかかった波飛沫と共に海に消えました。ドラム缶のように転がり、何かにぶつかり、また転がる私の腕を、誰かがグィと掴みました。乗組員の大男でした。私を助け起こして船室に連れ戻してくれたのです。その間にチラッと目に入ったのは、ただ一人、帆柱にしがみつき雨飛沫をかぶりながら夢中で写真機を覗いている添いあいの姿でした。

                     「あの人に中に入るよう言ってください」
                    と頼んだのを聞いてくれた乗組員が戻って来て「彼奴はだめだ。言うことを聞かない」と首を振りました。

                     毛皮欲しさの乱獲により絶滅しかけたオットセイの生息地辺りで、ようやく雨が小降りになった頃、添いあいが船室に戻ってきました。びしょ濡れの髪から雫をしとしと垂らしながら、まるで少年のように嬉々として言いました。

                     「いゃー凄い、最高だ。もし雨が降らなかったら、この豪快さは半減したよ。今日はついている。どうして甲板に出て観なかったの。こんなところは滅多に来られないのに、中で死んだような顔をしているなんて、気が知れない」

                     それも束の間、日が射し滝に虹がかかると、食べかけのパンを投げ置いて、飛び出して行きました。

                     「元気だね、彼は俺の爺さんみたいだ」
                    と、テーブルの向こうのでっぷり太った年配の人が片目をつぶり、「俺たち、ニューベットフォードから来たんだ」と続けました。
                    「モービー・ディック(白鯨) の」と私が言うと、
                    「そう、俺たちの先祖は鯨取りさ。爺さんの足跡を辿ってここまで来たけど、こう揺れたんじゃ、全く足腰が立たない」と嘆いたのは、隣に座っている白髪の人でした。

                     大自然の静と動を見せつけられた一日、ぐったり疲れた体の奥底から、何かしら大きな感動が沸き上がってくるのでした。


                    注:ニューベットフォードはマサチューセッツ州の海港、かつての北米捕鯨の中心地、メルヴィル著「白鯨」の舞台


                    ≪いそのゆきこ/プロフィール≫
                    ニュージーランド・ウェリントンに移り住んで四年、海外在住ライター広場や地球丸に参加。生活の中で、折々目にし、耳にし肌に触れることを、鉛筆を舐め舐めひらがなを思い出しながら書かせてもらっています。著書: BBC Talk Japanese
                    | 『ニュージーランド便り』/いそのゆきこ | 00:55 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    第10回 「南島旅行」その三
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                      連載「ニュージーランド便り」
                      文:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)


                       すっきり晴れた青空に、万年雪をいただいた南アルプス山脈を眺めながら、ほとんど車の通らない国道に、豆車を転がしたり止めたり。これほどの絵葉書は見たことがない、純粋そのもの、人の匂いがしないのが物足りない、といいたいほどの美しさ。

                       帰りは東海岸、太平洋側に出て南島をぐるりと一回りする予定でしたが、南島最大の都市、クライスチャーチの手前で、添いあいが、もう一度西海岸に出ようといい出しました。心変りです。東海岸の都市には何度も来ていることもありますが、東側は平野、山の景色と別れるのが、あまりにも名残惜しくなったのです。ここからアーサーズ・パスという南島を東西に横断する南アルプスの峠道があります。昔マオリ人が翡翠を求めて、次に西洋人のゴールド・ラッシュで賑わった峠、そして今は国立公園。片方の車窓は山脈と湖、もう片方は雨林。

                       交代でハンドルを握りながら峠を越えて、再び西海岸のグレイマウスに出ました。運転席に座れば、最も変化に富んだ海岸線を、ドキドキハラハラ、ブレーキの踏みっぱなし、助手席にいては写真機を手に歓声のあげ通し。

                       ようやく少し平らな直線道路に入ったところで、ポン、と何だか変な音。停まってみると、左前タイヤのパンク。気がつけば、南島の港、ピクトンに上陸以来、ヘヤーピンカーブやいろは坂、起伏に富んだ道路を走り続けて3000キロ、芭蕉の「奥の細道」の六百里、2400キロをゆうに超えていました。舗装がなく石ころだらけ水溜まり泥濘道もありました。芭蕉と曾良は何足となしに草鞋を履き潰したでしょうに、この豆車は一度も何の故障もなく、よくぞここまで走ってくれたものよ、と愛おしくなって思わず車体を撫で、「さあ草鞋を替えましょうね」と話しかけたのでした。その時、右前タイヤもすり減っていることに気づきました。でも予備は一つしかありません。辺りに自動車整備工場どころか、建物など見当たりません。タイヤを買えそうなところはウエストポート、そこまでまだ60キロ、もう夕方の5時です。

                       暗がりでもう片方もパンクしたら、どうしたものかと案じつつ、のろのろ走り出すと、森陰に建物らしい物、道端に看板も出ていました。ホテルです。ここは激しく打ち寄せる波で岩がパンケーキ状になった奇岩がある名所。聞いてみると泊まれるとのこと、ほっと胸を撫で下ろした時、ちょうど目の前のタスマン海に夕日が沈むところでした。

                       遥か沖から、背を橙色に染め押し寄せてくる怒濤が、岩に轟音をあげてぶつかり砕けていました。その後に、ほんのり桜色の波の花が咲いて、綿雲のように辺を埋め尽くしていました。波の花は冬の能登の風物詩、一冬に数回しか咲かなくて必ずニュースを賑わせるのに、ここは今夏、しかもこんなにたくさん。タスマン海は日本海よりもっと厳しい荒海ということかしらと、想いをはせたところに、万葉集の「相坂をうち出でて見れば淡海の海白木綿花に浪たちわたる」が、浮びました。

                       ホテルはまだ出来たばかりで新しく、ちょっとしゃれたレストランもあり、土曜日の夜のせいもあってか、10ほどあるテーブルの半分が客で埋まっていました。格子のシャツを腕まくりした給仕が、ウエストポートのタイヤを売る店を愛想よく教えてくれました。彼は羊500頭、牛100頭、鹿100頭を飼う近くの農家。昔は羊専業で、毎年2000頭から3000頭の子羊を生産していたけれど、近頃羊毛の需要がめっきり減り、肉牛や鹿にかえても、老妻と二人、食べるのが精一杯。それでここで小遣い稼ぎを始めたというのです。そういえば、新聞にニュージーランドの羊の数が5000万頭から3500万頭に減ったと載っていたのを思い出しました。子どもはもう成人して都会にいて、農業を継ぐ気はない。土地を売るのが金儲けの手っ取り早い方法だけれど、先祖が開墾した土地を売って都会に出る気になれないと、愛嬌顔を曇らせるのでした。

                       羊の国から脱皮して大きく変わろうとしているニュージーランド、かといって、工場などを建てて国土をこれ以上汚したくないのは、みんなの願い。大量の動物を連れ込んで、もう十分汚し、こんなに短時間で生態系を破壊したところは地球上のどこにもない、という生態学者の指摘に頷けます。国土は日本の4分の3、人口は3パーセントという数字を実感するには、都会に胡座をかいていてはわかりません。南島を見ずしてニュージーランドを語ることなかれ、という意味が、この旅行でようやくわかりかけてきたような気がするのです。


                      ≪いそのゆきこ/プロフィール≫
                      ニュージーランド・ウェリントンに移り住んで四年、海外在住ライター広場や地球丸に参加。生活の中で、折々目にし、耳にし肌に触れることを、鉛筆を舐め舐めひらがなを思い出しながら書かせてもらっています。著書:BBC Talk Japanese
                      | 『ニュージーランド便り』/いそのゆきこ | 00:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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