「地球はとっても丸い」プロジェクトの面々が心を込めてお届けしたエッセイです。
第1回 金髪小僧の悩み
0
    連載『遠くからやって来たパリジェンヌたち』
    文:夏樹(フランス・パリ)


     「フランスでドイツ人やってるのって、難しいのよ」、そう言うインゲは、パリに住んで25年になる。プラチナブロンドで、白人にはめずらしく、50歳過ぎても美しい肌をしているひとだ。

     生まれたのは東ドイツだが、幼少のときに西ドイツに亡命した。大学卒業後、美術の研究のためにパリに来て、そのまま住みついた。フランス人の夫アランとの間にひとり息子、金髪のジャンがいる。

     亡命したのは、彼女が6歳のときだった。

     ある夏の日、「今日はバルト海岸に泳ぎに行くから、さあ、みんな水着を着て」とお母さんがなにげなく言った。三人姉妹と末っ子の弟2歳は、水着にゴム草履とういう姿で、お母さんに連れられて電車に乗った。一家は東ベルリン市で降りた。

     当時、ベルリン市自体が東西に分割されていて、その間には、警察が監視に立っているチェックポイントがあった。必要書類が整っている人々だけが、警官にそれを提出して東と西を行き来することが、まだ、かろうじて可能だった。

     警官を前にしたインゲのお母さんは、「末っ子が迷子になっちゃって、見かけませんでした?」と言いながら、どさくさに紛れてチェックポイントを突破、一家は、着のみ着のまま、西ドイツに亡命した。子どもたちに水着を着せて家から出発したのも、隣人に気取られないようにという配慮から、亡命は計算しつくしてのことだった。

     翌年、『ベルリンの壁』が建設され、以降、多くの人々がこの壁を越えようとして銃殺された。ドイツが統合されたのは28年後だ。『壁』は、いとも簡単に崩壊した。

    「あの日、私はパリにいて、テレビで『壁』が崩壊するのを見ていたの。あんなに憎んだ『壁』が、数時間で崩れちゃうなんて信じられなかった。憎んでいた対象だって、自分の一部でしょ。それが突然なくなると、やるせないものよ。みんな、ドイツ統合だ、素晴らしい! って騒いでいたけど、本当にそうかしら? 私の国、東ドイツは消えちゃったのに……」

     亡命したという経歴も、祖国が消えたということも、彼女が一生背負っていかねばならない歴史だ。でも、それだけではない。

     もう、60年も昔のことになるが、第二次世界大戦中、フランスがドイツの占領下にあったということ、フランス政府もユダヤ人をホロコーストに送り入れるのに協力したという事実は、今でも二国間に大きな影を落としている。フランスに生きるドイツ人である彼女は、ことあるごとに、それを直視しなければならない。60年たっても、どうしても、ドイツ人=ヒットラーという図式が消えてくれないのだ。

     インゲの息子ジャンは、私の息子と同い年なので、子どもの話をする機会は多い。

    「学校どう? うまくいってる?」

    「それがね、人種差別されてねー」

    「差別って、金髪で青い目でそんなことあるの?」

    「っていうか、半分ドイツ人だからイジメられるのよ。ジャンのノートに、誰かが『鉤十字』をマジックインクでイタズラ書きしたのよ」注:『鉤十字』というのはナチス・ドイツの紋章

    「そういうイタズラって子どもらしくないな。そういうこと吹き込んだ大人がその背後にいそうね」

    「でもね、今回のことだけではないのよ。毎年、第二次世界大戦終戦記念日には、ドイツ人との混血だっていうことで、学校でいろいろ嫌なこと言われるみたいだよ」

     国家間の関係の難しさは、個人的レベルにまで浸透することがある。異国の地に暮らした経験がある人なら、多かれ少なかれ、こんなことを経験したことがあるはずだ。私だって、ディナーの真っ最中に、

    「そういえば、君の国の首相はいまだに靖国神社にお参りしているらしいけど、どういうことなんだい? いまだに反省していないのかね?」

    と突っ込まれることはよくある。深い悪意はなくても、みんなの前でちょっと困らせてやろうというのがみえみえである。こういう場で、へんに愛国者になってしまったり、自虐的にならずに対応するのは簡単ではない。落ち着いて自分の意見を述べ、最後には、お答えしている間に食事ができなかった腹いせに、相手をグサリと突く一言をサラリと言ってこそ、敬意をはらってもらえるというものだ。

     しかし、インゲや私が、「うちの子、外国人だからってイジメられてんのかな?」と心配している一方で、子どもたちは、今、時代の風向きを変えつつある。ある日、学校から帰ってきた息子が、おやつを頬張りながら言った。

    「ママ、トーキョーホテルっていうグループ知ってる?」

    「なにそれ? 日本のバンドなの?」

    「知らないのー? ママはあいかわらずオクレてるな。ドイツのバンドだよ。ぼくのクラスの女の子たち、みんなファンなんだ。コンサートで失神する子だっているくらい、凄い人気なんだよ」

     おかげで、第二外国語にドイツ語を選択する中学生が、急に増えたということだ。ドイツ語を聞くと戦争思い出して、なんていうフランス人ばかりではなくなったらしい。

     そして、トーキョーホテルの歌詞を全部そらで歌えるジャンも、この頃、ずいぶんモテるようになったと聞いた。

    ≪夏樹(なつき)/プロフィール≫
    フリーライター。リクルート社の海外旅行サイト「エイビーロード」上で、私流のパリの楽しみ方を毎週発信している。
     



    | 『遠くからやって来たパリジェンヌたち』/夏樹 | 12:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    第2回 このニンニク、18年漬け?
    0
      連載『遠くからやって来たパリジェンヌたち』
      文:夏樹(フランス・パリ)


       ベフナムとサマン夫妻はイラン人だ。ベフナムは画家、それも、ヤバイお方らしい。

       イスラム革命以前のイランで、王侯貴族お抱えの肖像画家だった彼は、イラン革命で国内展示禁止処分を受けた。“風紀を乱す”作風という理由で、国内での画家生命を断ち切られ、亡命した。

       奥さんのサマンは、黒髪で瞼の重たげな中近東美女、テヘランのブルジョア階級出身子女の常としてフランス人学校で育ち、彼女もイラン革命を機に亡命した。

       ベフナムが画家として活動を続ける傍ら、サマンはギャラリー兼お花屋さんを経営している。朝4時に小型トラックを運転してパリ郊外の中央市場まで仕入れにいく。猛スピードで走る大型トラックに押しつぶされそうになりながら……。

       サマンは店じまいをしてから遅く帰宅するので、彼らの家でお料理を担当するのはベフナムということになっているらしい。今までに色々珍しいものをご馳走になったが、今日は、牛肉のザクロジュース煮。

       つけあわせにと言って持ってきてくれたのは、お皿に山盛りのニンニクだ。そして、このニンニクは18年ヴィネガーに漬けたものなんだ、と明かしてくれた。

       「イランではお客が来ると、この漬け物を出してきて、これは15年漬け、20年漬けと、自慢して勧めるんだ。子どもが生まれた時、結婚した時、おめでたいことがあった時に作ってね」

       20年漬け?やっぱりメソポタミアの民の時間の感覚は、スケールが大きいのであった。

       歴史を感じるニンニクをポリポリ齧りながら、「近頃の、あのスカーフ論議、どう思う?」と聞いてみた。

       最近フランスでは、イスラム教徒の女生徒たちが、髪をスカーフで覆って中学校や高校に来ることが問題になっている。厳格なイスラム教徒の女性は、家の外では髪を隠さなくてはいけない。でも、フランスの公立学校では自分の宗教を表現するような服装やアクセサリーをつけるのは禁止されている。

       そこへもって、イスラム教徒の女生徒が「信仰の自由」を掲げて学校へスカーフ姿で登校し、停学や退学処分になったりする事件がここ10年で増えた。社会的に大きな論争を巻き起し、「私達はフランス人でイスラム教徒、スカーフを被る権利がある!」というスローガンでスカーフ姿の女性達がフランス国旗を持ってデモする騒ぎにまで至った。

      「あー、あれね。私、すごく腹がたってるの!私は、女性を束縛するイスラム原理主義の馬鹿馬鹿しい規則から逃れるために、フランスに亡命してきたっていうのに、ここではスカーフが流行っている。スカーフを受け入れたら、その後にどんな恐ろしいことが私達を襲うことになるか、彼女達はわかっていないのよ。その後は、口を隠すマスクみたいなものをつけさせられ、その次はチャドール(注1)で顔も隠すように強要される。次は女一人で、あるいは女同士でさえ外出してはいけない、外で喋ってはいけない、働いてはいけない、勉強してはいけない、そういう人生が待っているんだよ。私はイランがそうなっていくのを目のあたりにしたから、だから怒っているのよ。イランにだって、革命前はミニスカート姿の元気な女達がいたのよ。信じられないでしょう?フランス政府はなんで、あの無知な小娘たちにはっきりした態度をとれないの?学校にスカーフして来たらだめ、そういう決まりなんだから、その一言で足りるじゃない。それを、『信仰の自由』や『個人の自由』をもちだして、話し合おうだなんて、曖昧な態度とりすぎ!」

      「そう?でも、たかだかスカーフだよ。いいじゃない?」

       そう言うと、案の定、怒られた。

      「そういう考えは甘いのよ。すでに獲得した自由というのは、1ミリたりとも譲っちゃいけないのよ。そりゃあ、フランスがイスラム教原理主義国になることはたぶん、ないと思うよ。でも、中絶やピルは?解禁されたのは、そんな昔のことじゃないでしょう。『スカーフくらい、いいじゃない』そんなこと言っていると、20年後、気づいたらキリスト教原理主義国になってるかもよ。『避妊するのは神の意志にそぐわないから禁止』っていうことになったらどうする?」

       そうだ。今、私たちがあぐらをかいて座っている女性の自由、ここまで来るのに、どれだけの犠牲がはらわれたことか、きちんと考えたことがなかった。
       
       1942年、中絶は重罪とみなされ、ギロチン台行きだった。フランスでだって、中世からずっとキリスト教が政治に介入してきたのだ。子どもは「神様からの授かり物」、そして生むのは「お国のため」だった。

       女性が夫の同意なしに、自分の財産管理をし、銀行口座を開き、職をもつことができるようになったのは、驚くなかれ、1965年のことだ。

       1972年には、ボビニー裁判というのがあった。これは、レイプで妊娠した未成年の少女が、母親の同意を得て非合法の中絶をして訴えられた事件だ。

      「私の娘が悪いのではないでしょう、ムッシュー、あなたたち男性が作った法律で女性を裁くのがまちがっているんです」

       こう、裁判官に言い放った母の言葉が世論を大きく揺り動かした。そしてやっと、1974年、妊娠中絶が合法化された。

       いつも思うのだが、政治亡命してきた人々というのは、自由を取り巻く欺瞞や危険に対して、平和ボケしている私たちより数倍敏感に反応し、容赦なき態度に出る。そして、彼らは、明日や1年先ではなく、数十年先を読む。

       私たちの世代だけのことではなく、次の世代のことも考えなきゃ。
      そう、思った。少なくとも、今ある自由は守り継がなくては。

       18年漬けのニンニクの酸味のせいか、サマンのお叱りのせいか、突然、視界が開けたように感じた。

      (注1):イスラム教徒の女性が外出するときに身につける、一枚布の大きなスカーフのようなもの。


      ≪夏樹(なつき)/プロフィール≫
      プロフィールフリーライター。リクルート社の海外旅行サイト「エイビーロード」上で、私流のパリの楽しみ方を毎週発信している。
      | 『遠くからやって来たパリジェンヌたち』/夏樹 | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      第3回 夜の言葉
      0
        連載『遠くからやって来たパリジェンヌたち』
        文:夏樹(フランス・パリ)


         いくつもの地方から成るフランスが一国として統一されていく過程で、抹殺された言語がたくさんあった。地方言語であるブルターニュ語、プロヴァンス語、バスク語。そして海外県で話される混淆言語、クレオル語……それは、国を統一していくためには、避けられないことであったかもしれない。しかし、その言語特有の感性、笑い、ジョーク、詩、リズムも、同時に葬られた。地方によっては、今、70歳代の人々は話すけれども、50歳以下の人々はまったくわからないという言語もある。ある言語を殺すなんて簡単なこと、一世代でこと足りるのだ。

         カリブ海のアンティーユ諸島には、フランスの海外県グアダループ島とマルチニック島がある。コロンブスに発見されたこの2島には、アフリカから黒人奴隷が送り込まれ、三角貿易で栄えた。17世紀、島では皆が、アフリカの部族語とフランス語の混淆言語であるクレオル語を話していた。白人同士はフランス語で話していたとしても、白人と奴隷はクレオル語で会話し、違う部族出身の奴隷同士も共通言語をもたないのでクレオル語を話した。しかし奴隷解放後、クレオル語は下品で粗野な、無教養な人間の言葉として軽蔑されるようになってしまった。5、6年前、私がグアダループ島へ行った時の体験では、99%の島人がフランス語とクレオル語を話すバイリンガルで、TPOによって使い分けているようだった。朝市に魚を買いに行ったりすると完全にクレオル語の世界、でも首都で一番大きな本屋に行くとフランス語の世界だ。たまに、クレオル語でしか話せないという年配の人がいるかもしれないけれども、テレビがフランス語なので、そういうことも少なくなってきているようだ。

         黒人ととフランス人の血をひいたジュリーはアンティーユ諸島で生まれた。秀才だったので、高校卒業後、医学部入学試験の準備のためフランス本土に送られた。

        「フランス本土に来てはじめて、私はフランス人ではないっていうことを発見したわ。友達とフランス語で話していても、知らない表現がたくさんあって、わからないことがあった。町で買い物していると、レジのおばさんに『どこの国から来たんだい?』と聞かれる。私は自分のこと、フランス人だと思っていたけれども、それは書類の上でのことでしかなかったのよ。フランス本土の人々にとっては、海外県からやって来た私なんて、ただの外国人なんだって気がついたわ」

         微妙なところだ。海外県の人々は、法律上はれっきとしたフランス人だが、フランス本土人にとって、彼らはいまだにエキゾチックな存在なのだ。

        「どうせ外国人なら、日本人のように欧米文化とまったく違った文化背景があるほうが生きやすいと思う」と、彼女は言う。

        「アンティーユ諸島出身って、その点、アイデンティティーが希薄なの。私は両親から、アンティーユ諸島人としてのアイデンティーについてなんて何も習わなかった。彼等にとってはフランス本土が世界の中心で、白人のフランス人が全てのお手本だったのよ。あの年代のアンティーユ諸島人にとって、成功するっていうのはいかに、自分の黒人性を捨て去り、白人に似るかだった。『自分らしさ』なんて、両親はこれっぽっちも考えたこともなかったんだと思うわ。」

         そんな彼女が、自分のルーツを意識したのは、セネガルのゴア島に行った時だ。カライブ向けの奴隷が奴隷船に乗せられた、アフリカの土の上に自分の足で立ったときだ。そこで、自分のルーツはアフリカなんだって意識した。

        「それからかな? アフリカの名残をとどめているクレオル語を母国語として意識し始めたのは。両親には、クレオル語は下品な言葉だから話してはいけないって言われていたけれども……」

         ジュリーのようにブルジョア家庭に育つと、男の子同士でクレオル語を話すのは仕方ないとしても、女の子が話すのは、はしたない、そんなことでは良い結婚はできませんよ、という教育を受けるそうだ。

         去年、国立劇場コメディーフランセーズでクレオル語の劇が上演された。文化庁お墨付きの劇場でクレオル語の劇だなんて、少し前には考えられなかったことだ。私はジュリーに誘われて行った。字幕無しなので、もちろん90%の観客がアンティーユ諸島人だ。まったくわからない私のために、上演中、ジュリーは辛抱強く小声でフランス語に同時通訳してくれた。これが、フランス人の観客だったら、即座に、「静かにしていただける?」とお叱りを受けることまちがいなしだ。でも、アンティーユ諸島人の習慣では、べつに静かに観劇しなくてもいいらしい。「夫の浮気がばれる」という場面になると、突然、「イヤな奴!」「実家に帰っちゃえ!」という大きな声が客席から次々飛び交い、国立劇場は修羅場と化す。クレオル語の世界では、劇場や、映画館で、感情移入した私的なコメントを大きな声でしてもいいらしい……本当のこと言うと、劇の内容より、観客の反応を見ているほうがずっと楽しかった。

         隠れて話す言葉、夜の言葉、恥ずべき言葉、はしたない言語と卑下されてきたクレオル語は、じつは、イメージや匂い、触感に溢れた言語だ。ぜんぜんわからなくても、聞いているだけで頬がゆるんできてしまい、大笑いしたくなってしまう、不思議なリズムがある。

         最近は、高校卒業試験の第二外国語にクレオル語も選べるようになった。どんな言語だってそのユニークさはかけがえのないもの、上品も下品もあるまい。


        ≪夏樹(なつき)/プロフィール≫
        フリーランスライター。12歳になる我が子は、日本語で話しかけても、フランス語で返事をしてくる。面倒なのか、環境が悪かったのか、私の教育が悪かったのかと悩むこの頃。ジュリーは、結局、自分の子どもたちにクレオル語で話しかけることはなかったと言う。
        | 『遠くからやって来たパリジェンヌたち』/夏樹 | 05:46 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        第4回 ママンのお金
        0
          連載『遠くからやって来たパリジェンヌたち』
          文:夏樹(フランス・パリ)


           今回は、遠くからやってきたパリジェンヌならぬ、パリジャンの話だ。

           トニーは、夫の姪がイタリアに留学していたときのボーイフレンドだった。彼女と別れた後も、なぜか夫になつき、つきあいが続いていた。何やら怪しげな商売で日銭を稼いでいるようだったが、そんなやくざな男たちに特有の魅力があって、冷たく突き放すことができなかった。

           トニーはローマに住んでいたが、忘れた頃になると、フラリとパリに現れては家に泊まっていく存在として、それなりに私たちの生活の中に定着していった。そして頼みもしないのに家の修理をしてくれたり、おいしいパスタ料理を作ってくれた。一週間ほど我が家に居候すると、なにやらいわくありげな秘密めいた電話が頻繁に入るようになり、そうすると、「仕事が見つかったから」と言ってローマに帰っていくのであった。

           さりげなくて、おおざっぱで、宵越しの銭は持たないというのが彼のエレガンスだった。でも、そのお金の使い方には、どう考えても不思議なところがあった。すっからかんの文無しだったり、そうかと思うと湯水のような使い方をする。

          「トニーって、どんな仕事しているの?」と、ある日、夫に聞いてみた。
          「密輸とかそんなことだろう」
          「仕事で?」
          「お祖父さんもお父さんも昔はそうだったらしいからね、継いだんだよ」

           まるで、子供の頃読んだ絵本の中の、追い剥ぎを生業とする山賊一家の話のようではないか。でも、敗戦後、イタリアの経済低迷は深刻で、そういう地下経済が長く続いたらしい。

           「密輸は仕事であるか否か」という疑問は、数年後にナポリに行った時にすっきりと解けた。アナクロニックで信じ難い出来事が白日の下で堂々と起こる街で、煙草の密輸入業者がデモをしていた。取り締まりがこれから強化されることになったので、それでは生活が苦しくなる、食べていけない、一家が路頭に迷うといって、密輸人たちが抗議しているのだった。男達だけではない、その妻や子供達、孫達も一緒にだ。そして、このハチャメチャさを街の人々は当然のこととして受け止めているようだった。

           トニーの「仕事」というのも、なにやらそれに似たようなものらしかった。

           もちろん、捕まって痛い目に会ったこともあったが、なかなかまっとうな生活ができないらしかった。あいかわらず、白黒映画に出てくるローマのチンピラのような粋な着こなしで前触れもなくとパリに現れ、とんでもない買い物をしたり、挙げ句の果て、ガソリン代を夫に借りて帰ったりしていた。夫は、いつも「絶対返せよ、おまえのために、ママン(母親)から借りた金なんだからな」と言って念を押し、トニーは「わかったよ」と決まりわるそうにしていた。

           「あいつ、すごいマザコンなんだ。だからこう言っておけば、絶対、金返しに来るだろう」こう、夫は言っていた。

           季節はずれの猛暑に襲われた昨年の6月のある日、帰宅して留守番電話のメッセージを聞いていると、久しぶりにトニーのメッセージが入っていた。

           「トニーですけど……今、刑務所にいます。コスタリカに彼女がいて、会いに行こうと思ったら、飛行場で捕まっちゃった。彼女のお腹には後一ヶ月で生まれる僕の子供がいます。少しでいいから、彼女に郵便局からお金を送ってあげてください。後3週間で出所できるので、そしたらお金、絶対返すから。またあした、電話します」

           妙にかしこまった、話し方だった。

           翌朝、トニーからモーニングコールが入った。前日のメッセージを聞いて、刑務所からかけているのを知っている夫は寝ぼけ眼で不貞腐れている。

           「またか!うちはお前に貸すような金がありあまっているほど金持ちじゃないんだよ。出産準備のために彼女に送るんだったらまとまった金額送らないと、意味ないだろう。そうなると、またママンに金借りなきゃいけないじゃないか」

           言い訳をしているトニーのぼそぼそした声が、どうにかこの場を切り抜けようと、あることないことないまぜにして語っているのが、台所で洗い物をしている私にも聞こえてくるようだった。

           いつまで、危ない橋を渡って暮らすつもりだろうか?なんで真面目に仕事しないんだろう?聞いてみたいことは山ほどある。でも、どんなに親しくなっても、やくざな彼とはすべてをわかち合えないもどかしさがあった。彼がなかば自慢げに物語る悪事は、夜の繁華街のように闇の中ではきらびやかだけれども、朝日の下ではなにやら色褪せて、埃っぽかった。聞いている時はおもしろくてスリリングで、つい本気にしてしまう、でも、後になってよくよく思い返すと、辻褄があわなくて、なにかしら誤魔化されたような感じがする、そんな話だった。

           翌日、私は郵便局に行って、コスタリカの彼女にお金を送った。もう、トニーとは永遠に縁切りだ、父親になる日に自分は刑務所にいて、それでいてまたお金を貸せだなんて、そう憤りながら。そして、送金受け取りに必要な暗証番号を伝えるために、彼女に電話をした。電話口の向こうの、ゆったり波うつようなスペイン語が妙に懐かしかった。「グラシアース」と、臨月間近の、まだうら若い彼女は歌うように発音し、「赤ちゃん、最近、よく動くの。もうすぐだと思うわ」と言った。

           その一言で、お金が返ってくるかどうかなんて、もう、どうでもよくなってしまった。海の向こうで芽生えている、小さなひとつの命の鼓動が私の怒りを鎮めた。

           どうやってもまっとうに生きることができないトニー、せこい密輸なんかして時代錯誤もはなはだしいトニー。ちょっぴり迷惑で、でも、どうしても憎めなかったトニー、今、どうしているだろう?

          ≪夏樹(なつき)/プロフィール≫
          フリーランスライター。在仏約20年。パリの日本人コミュニティー誌「ビズ・ビアンエートル」や日本の女性誌に執筆。



          | 『遠くからやって来たパリジェンヌたち』/夏樹 | 09:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          第5回 青春の味 〜独裁政治下で〜
          0
            連載『遠くからやって来たパリジェンヌたち』
            文:夏樹(フランス・パリ)


             チリ人のトリニダッドは、際どい言い回しや、良家の子女にはお勧めできない悪い言葉だって平気で口に出し、それが下品にならないところがなかなかカッコイイ人だ。

             彼女は青春時代を独裁政治下で過ごした。
             
             60年代、チリでは、社会の上層部を占める大地主、政治家、企業家など、国民の13%に当たる人々が国民総所得の50%を欲しいままにしていた。

             こういう社会背景の中、トリニダッドは富裕階級に生まれた。親戚は当然のことながら保守的な人々が多く、1970年に大統領に当選したアレンデの社会主義政策に対して懐疑的であった。彼女の両親だけがアレンデ派、「まっとうな」人々には聞こえの悪い、社会主義者であった。

             大地主所有の土地を分割して小作人に与える農地改革、国民全体が無料で教育を受けられるように、そういった政策に業を煮やした軍部は、3年後、ピノチェ将軍に率いられてクーデターを起こした。アレンデ大統領は自殺した。不思議なことに、ツインタワー爆破事件と同じ9月11日だった。
              
             「クーデターのあった日のことはすごくよく憶えているの。空をヘリコプターがいくつも旋回していて気味が悪かった。隣の家の人達はベランダでバンザーイ!と叫びながらシャンペンを開けて大騒ぎしていた。反対に私の家では、ママが電話で誰かと話しながら泣いていた。パパは突然怒りだして、ママの手から受話器を取り上げてガチャンと電話を切った。外に出てみたけど、誰もいなかった。ふだんは人通りが多い通りなのに、ガラーンとしていて気味が悪かった。パパが慌てて私を家の中に引き戻し、いきなり私の手をパチンと叩いた。私は何がなんだかわからなくて、その日は泣いてばっかりだったわ」

             これが、ピノチェ将軍の軍部独裁政権下での、第一日だった。反ピノチェ派の人々は検挙され、投獄、拷問、暗殺される日々が始まった。

             中学生になって早々に、彼女はゲットーの子どもたちに夕食を配るボランティア活動に参加するようになった。親が警察に検挙されて、毎日満足に食べることができない子どもたちがたくさんいたからだ。毎日、夕方になったら仲間と食料を買い出しに行き、炊き出しをした。

             「ある晩、ゲットーで食事が終わったあと、みんなと話をしていたら、夜遅くなってしまった。その頃のサンチアゴでは夜の外出禁止令が警察から出ていたから、とにかくその夜は、ここで泊まっていこうっていうことになった。ベッドに入って、枕元にあった本をちらっと手にとった。警察で行われている拷問についての本だった。拷問されたらどうするか、そういう心構えのために、反ピノチェ派の間で地下出版されていたんだろうね。咄嗟に、読まないほうがいいかもしれないって思ったけど、止められなかった。怖いもの見たさっていうのかな。風の強い夜で、ドアの掛けがねがカタカタいっていた。そして、私も震えていた。歯の根が合わなくなっていた。自分が今、生きている世界の実態が実物大になって迫ってきた。15、6歳の頃だったと思う」

             学校に行っていた彼女にとって、日常生活は何事もないかのように過ぎ、でも、そんな政治状況下ならではの知恵は自然に身につけた。群衆の中で警察のスパイを見分ける方法や、誰かに後をつけられていると感じたらどうやって相手を巻くか、そんなテクニックを私にも伝授してくれた。「フランスだって、いつ、何が起こるかわかったもんじゃない。いざというときに役にたつかもしれないから、知っておいたほうがいいよ」と言いながら。

             私も70年代という、激しい左翼運動が日本でも繰り広げられた時期に子供時代を送ったけれども、トリニダッドの経験ほど、日常生活に政治が入り込んでいなかった。独裁政権ではなかったし、そういう問題に巻き込まれずにすむ環境に育った。確かに子供の世界を満喫することはできたから、それは、幸いといえば幸いかもしれない。でも、私が三里塚の住人であったり、三菱重工爆破で負傷したりしていたら、また別の生き方を強いられ、別の世界観を持ったとしても不思議はない。世界が平和だったのではなく、ただ、知らずにすんだのだ。

             「うちのママは、地下活動に忙しくてほとんど家にいなくて、寂しいこともあったわ。ずっと後になって知ったことだけど、ママは免許ももっていないのに、小型トラックを運転して、警察から捜索されている人を、あるアジトから別のアジトへ移動するのを手伝っていたらしい。ママが捕まったら、私達兄弟4人は母無し子になるところだったっていうのに。社会主義を信じるのはいいけれども、その思想のためなら子供なんてどうにでもなれって思っていたのかしら?」

             そういう時代だったけど、悪いことばかりではなかったというのが、本音らしい。

             「たとえばね、私は自分の叔父や祖母と敬語でしか話さないのに、デモや秘密集会で出会った人たちとは、どんな人とでも敬語無しで話しあった。同じ社会を夢見てるっていうだけで、年令や階層、肌の色、あらゆる隔てがなくなってしまう、そんな経験もした」

             独裁下で過ごす青春って、確かに理想的ではないかもしれない。でも、自由がなかっただけに自由の尊さも脆さもよく知っている。人を見る目も肥えるし、とても私と同い年とは思えないほど肝が座っている。

             そんな彼女も今は二人の息子の親だ。「うちの子たち、洋服や音楽やゲームのことばっかり話しているけど、あれがフランスでは普通なの? 私があの年頃には、ゲットーに炊き出しに行っていたよ。戦う理由があったから、毎日がもっと手応えあるものだったけど。あの頃が懐かしいって言ったら、やっぱり、ちょっとマズイかな?」

            ≪夏樹(なつき)/プロフィール≫
            フリーランスライター。在仏約20年。パリの日本人コミュニティー誌「ビズ・ビアンエートル」や日本の女性誌に執筆。
            | 『遠くからやって来たパリジェンヌたち』/夏樹 | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            第6回 クリスマスの想い出
            0
              連載『遠くからやって来たパリジェンヌたち』
              文:夏樹(フランス・パリ)
               

               カトリーヌとは、最近、もうあまり会わなくなってしまったのだが、ひと昔前は、よく、家に遊びに来ていた。もう孫がふたりもいる年だというのに、恋愛にうつつを抜かしては一喜一憂していた。でも、妻子持ちやら、ドメバイ男、偽名を名乗っていたイカサマ貴族やら借金もちという、いわくつきの男が多かった。「わざとそういうの選んでるの?」と言いたくなるほどだった。仕事はできる、モテる、女としての魅力はムンムン、でも、絶対に長続きしない恋を選ぶ。

              「だって、まっとうな男ってつまんないじゃない」

               そうかもしれない……。

               彼女との想い出で忘れられないのは、数年前、一緒に過ごしたクリスマスイヴの夜のことだ。

               みんなそれぞれ、子ども時代の印象的なクリスマスについて話すことになった。いかにも懐かしい、ジーンとくる話を聞くことができるかと思っていたら、まったくそうではなかった。はしゃぎすぎて親に怒られて、雪の中、庭に立たされて熱が出たとか、なにかの拍子に癇癪を起こしたお父さんが、ディナーの最中にお母さんの顔に七面鳥の丸焼きを投げつけたとか、そんな凄まじいクリスマスの想い出ばっかりである。でも、きわめつきはカトリーヌだった。

              「うちは、親の代から、イタリアから移民してきたの。親戚もみんな、一族そろってフランスに仕事を探しにきた。うちの家族は、マルセイユで暮らしていたんだけど、叔父一家は、フランス北部の炭坑で働いていたから、クリスマスは彼らの家で一緒に過ごす習慣だった。炭坑街って行ったことある?空が黄色くて、街全体が煤けていて、炭坑夫とその家族用の、同じ形をした家が延々と並んでいる。そして、街中、変な臭いがするの、なんの臭いかははっきり言えないけれど、貧しい家に特有の臭い。クリスマスっていうと、嫌で嫌でたまらなかったあの臭いを思い出す」

               イタリア人が労働者として出稼ぎにやってくるようになったのは、19世紀半ばのことだ。その後、1920年から40年にかけて、ムッソリーニのファシズム運動が台頭した時期には、政治的理由で亡命しに来る人々もいた。

               カトリーヌが生まれ育ったマルセイユは、イタリアからの移民がとくに多い街だ。フランスの南端に位置し、地理的に近いというのがその理由だろう。彼らは、同じ地区に固まって生活し、祖国の生活習慣や文化を継続することができた。

              「子どもの頃、マルセイユの波止場で、大きな荷物をもって船から降りてくるイタリア人移民の群れを見て、恥ずかしくてたまらなかったわ。貧乏臭い恰好して、大声でぺちゃくちゃ喋って」

               コロコロ太った小母さんたちが、狭い路地に椅子を出して座っておしゃべりするような、そんなピトレスクな地中海的な情景。でも、その情景が醸し出す何かが、彼女には恥ずかしかったのだ。それは彼女の言う「臭い」であり、切実な貧しさかもしれない。あるいは、パンツをテラスに堂々と干してしまうような、周りのフランス人とは若干ずれた感覚(イタリアではよく見かけるが、フランスでは皆無)であり、子どもの学校の連絡帳に間違いだらけのフランス語を書く、そんな両親の垢抜けなさであったかもしれない。でも移民一世って、そんなものだ。いつまでたってもぎこちなくて、他人には意味不明な祖国の習慣を後生大事に引きずった、なにかしらみっともない存在だろう。

               「ここから逃げ出すためには、学歴積んで、社会階級を昇りつめるしかない」と、ごく小さいときから自覚していたという。

               ところが、18歳の夏の後、妊娠しているのに気づいた。希望の大学に入ることも決まっていたし、欲しい子どもではなかった。中絶しようとしたが、カトリック教徒の家族親戚の大反対にあった。「せっかくの神様からの授かり物をでしょう。女の幸せは結婚と子ども!」といって、家に閉じ込められ、無理矢理、結婚させられた。

               大学に行き、子どもが3歳のとき、婚家を出奔した。南アメリカの、ブラジルの横にあるフランスの海外領土ギヤヌに仕事を見つけて、子連れで逃げたのである。ギヤヌというのは、「人生もう一度やりなおしたい」と思う人や、なにかあまり自慢できない理由でフランス本土で追われている人々が、よく、身をくらませに行く場所である。

               数年後、フランス本土に帰ってジャーナリズムに入った。以来、恋人はたくさんいたが、二度と、誰かと安定した生活をということはなかったという。無理矢理結婚させられたという想い出が、彼女を「閉所恐怖症」にしたのだという。

               こんな母親をもったせいか、彼女の娘はものすごく「まっとう」になった。大蔵省の高級官僚になり、大手の銀行幹部と結婚し、色気とはほど遠い堅固な家庭を築いた。そして、母親のラブストーリーを聞いては「ったく、いい年して。ママったら!」と唇を噛みしめている。

               生まれ育ったイタリア人街を飛び出して、家庭から逃げ出し、フランス本土からも脱出し、それでもまた、まっとうな生き方の枠からはみ出てしまう彼女。馴染み親しんだものにしがみつくより、未知のもののもつちょっぴり危険な輝きに否応なく魅かれてしまう、そういう素質をもった人だ。

               娘の気持ちもわかるが、私は、カトリーヌの生き方にも共鳴してしまう。「まっとうな」生活なんて、ほんとうにつまらない。安定しつくした生活の中で、心がときめくことなんてないもの。

              ≪夏樹(なつき)/プロフィール≫
              フリーランスライター。在仏約20年。パリの日本人コミュニティー誌「ビズ・ビアンエートル」や日本の女性誌に執筆。
              | 『遠くからやって来たパリジェンヌたち』/夏樹 | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              第7回 ディロシャのピアノ
              0
                連載『遠くからやって来たパリジェンヌたち』
                文:夏樹(フランス・パリ)


                 今13歳になる息子は、幼稚園、小学校ともに近所の公立学校に行った。保護者の国籍は約40カ国に及び、フランス人の方が少なかったかもしれない。彼が小さかった時のクラス写真を見ていると、その大半はなにかしら異国情緒の漂う顔つきだ。

                 その中で、何人か、忘れ難い子どもたちがいた。今、どうしているのだろう?この界隈の地価が上がるに連れて、みんな、引っ越して行ってしまった。

                 私の心を離れない子がいる。スリランカ出身のディロシャだ。

                 仏教徒とタミル人反政府組織との対立が続くスリランカから、少数派であるキリスト教徒のディロシャの両親は子ども3人とフランスに亡命した。まずは、親戚のところに居候したが、二部屋に10人はさすがに無理だったらしく、一家は、文字通り路頭に迷うことになった。彼らにとってフランスに来た理由が政治亡命であっても、フランス政府がそれを「政治的理由」と認め、生活を援助するかどうかは、まったくの別問題であるからだ。

                 凍えるような寒さの冬だったこともあり、学校の先生が音頭を取って、大きめのアパートに住んでいる保護者たちに援助を呼びかけた。スペースに余裕のある家で、数日ずつ一家を泊めた。そして結局、近所の教会の紹介でまあまあの住まいを見つけたようだった。

                 そのディロシャが、市立の音楽学校に登録し、ピアノを習い始めた。でも、家で、誰も練習の面倒を見てくれない、それでは上達できないというので、少々ピアノを弾ける私の家に、時々来ることになった。

                 ほんとうのことを言うと、彼女は、あまりピアノが得意なようではなかった。楽譜に書いてある音を、鍵盤の上で押す、そういう単純作業をたどたどしくしているだけのようだった。

                 私の立場は微妙だ。先生ではなく、アドバイスをするだけだ。自分の子どもなら「やる気ないなら、やめちまえ!」と喝を入れることはできるが、そうもいかない。そこで、意を決して何気なく聞いてみた。
                「ねえ、歌うの好き?」
                「うん、大好き」
                「じゃあ、ピアノは?ピアノも大好き?」
                と聞くと、突然、泣き出した。

                 そして、
                「ママンがやれっていうんだもん。どうしても止めちゃいけないって言うんだもん」
                 と消え入りそうな声で言った。

                 私は、ディロシャのお母さん、エリザベトから、「娘にピアノを買いたいのだけれども、どれを買ったらいいのかわからないから、一緒に来てくれる?」と頼まれたことがある。

                 はっきり言って、私には、なぜエリザベトがピアノを買いたいのか、よく、わからなかった。市立の音楽学校に登録すると、ピアノの練習室も無料で借りることができるはずだ。エリザベトは学校の給食室で働いているし、お父さんは引っ越し業だ。二部屋の小さなアパルトマンに5人で住んでいるのに、あまり多くはないだろう収入をはたいて、ピアノ買うの? 余計なお世話だが、ちょっと不思議だった。

                 待ち合わせたピアノ屋さんの中に入ってびっくりした。総勢20人あまり、親戚一同そろってピアノを見立てに来ているのだった。みんな、結婚式のように盛装している。ディロシャは、その真ん中で、光沢のある綺麗な服を来て、真っ黒な髪にリボンをつけて、嬉しそうだった。

                 そのとき、エリザベトにとって「ピアノ」が何を意味しているのか、かすかにわかったような感じがした。

                 ピアノが西洋文化の象徴のひとつであることは、言うまでもない。私の知っている西洋といったらフランスだが、そのフランスでさえ、ピアノが家にあって、子どもがピアノを習っているというのは、平凡なことではない。「教育程度」「家風」といったステータスを暗にほのめかすことなのだ。

                 意味深な「ピアノ」だが、それを手に入れるということは、エリザベトにとって、異国からやってきた自分たちとフランスとの絆を固めるということだったのではないかな、と想像する。「ピアノを奏ける子どもになれたら、うちの子も一人前。この国にしっかり根付くことができるだろう」、亡命してきた親ならではの、そんな切実な願いが感じられるのだ。

                 最近、大きくなったディロシャに再会した。

                「私とお姉ちゃんは引っ越しするの。地方の寄宿舎付きのカトリックの学校に行くことにしたんだ。お兄ちゃんは、パリでお父さんとお母さんの面倒を見ながら学校続けるけど」

                 そう言って、地方の音楽学校の入学試験の規定曲を奏いてくれた。あいかわらずのでき栄えだったけど、続けているようだった。

                「大丈夫でしょうか? こんなんで、入学試験に受かるものなんですか?」
                 とお姉ちゃんは、心配顔だ。

                 私は返事に困ったが、今はこう、思う。

                 外国で暮らすには、何か、しがみつくものがなくてはやっていけない。亡命していて、両親がフランス語ゼロならなおさらだ。どうにかして、この子は、自分の力で、この国に自分の居場所を見つけなくてはいけないのだ。

                 うまいか下手かはどうでもいい。もしかしたら、この子にとってピアノは、自分のアイデンティティーの依りどころなのかもしれない。この地で、根を張り、大きく成長していくための支えになるのだったら、それでいいではないか、と。

                ≪夏樹(なつき)/プロフィール≫
                フリーランスライター。在仏約20年。パリの日本人コミュニティー誌「ビズ・ビアンエートル」や日本の女性誌に執筆。
                | 『遠くからやって来たパリジェンヌたち』/夏樹 | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                第8回 心はマーブル模様
                0
                  連載『遠くからやって来たパリジェンヌたち』
                  文:夏樹(フランス・パリ)


                   アメリカ合衆国大統領にオバマ氏が当選したことは、フランスでも大きな話題になった。そして、アフリカとは、合衆国以上に長く深い関係にあるこのフランスで、なぜ、たったの一度もアフリカ出身の大統領が出ないのか、フランスはアメリカより遅れているのではないか?と問題提起する人々もいた。

                   セネガル、コートジボワール、マリなどの西アフリカ諸国は1895年から1958年まで仏領だった。しかし、一方的にフランスが利益をあげていたとはいえ、アフリカ諸国とフランスとの交易は17世紀初頭から行われていたということだから、それはそれは長いつきあいである。

                   私がパリに来た約20年前、最初の大発見はアフリカ、といっても、マグレブ諸国(注1)ではなくアフリカ南部だった。不思議なことに、あれだけフランスかぶれしてパリにやって来たというのに、着くや否や、私はアフリカン・カルチャーの虜になってしまったのだ。方々を旅した友人が「黒人がいない都会はつまらない。リズムがない、スイングしない、空気に張りがない」と言っていたが、本当かもしれない。

                   あの頃、自宅の隣には「ザイール運送」(ザイールは現コンゴの旧名)があって、故郷にプレゼントを送りにくるコンゴ人が道にあふれていた。数軒先には、アフロヘアー専門の美容院があって、ドレッドヘアーを編んでもらいにくる女の人たち、それにくっついてくる子どもたちでごったがえしていた。車が通れなくなって、けんかになったり騒ぎも多かったが、それはそれで街の賑わいのひとつ。眩しいまでに派手に着飾った男たち、カラフルな布に包んだ形のいいお尻をプルンプルンと震わせ、女王然と歩くママンたちは、見ているだけで楽しいものだった。

                   そんな通りで、私はコートジボワールから来たひとりの男の子と知り合った。少し年下でまだ大学生だったBは、私がまったく知らなかった彼の祖国での暮らしぶりについて、いろいろ教えてくれた。

                   お父さんはとっても年をとっているけれども6人奥さんがいて、Bのお母さんは、いちばん若い奥さんだということ。同じお母さんから生まれた兄弟は全部で5人だけど、お父さんの子どもは全部で50人くらい。
                  「だから、夏休みに帰郷するときは大変なんだ。みんなにお土産を買わなきゃいけないから、サンタクロースみたいになって飛行機に乗るんだ」
                  と言ってぼやいていた。

                   また、彼のもつ「日本観」にも、びっくりさせられた。「日本は、史上初めて白人の国を攻めに行った国だから偉い!」と言うのだ。パールハーバー襲撃のことを言っているのだが、こういう歴史の読み方もあるんだなー、と感心してしまった。

                   Bと一緒のときは、挨拶がてら同郷の誰彼のところに寄るのが習慣のようになっていた。それが、入り口の前で後ずさりしてしまうような、怪しげな家具つきホテルだったこともある。正規の滞在許可証をもたず、それゆえにアパートを借りることができない移民を相手に、部屋を法外な値で貸すホテルだ。改築工事も長い間されていない様子で、電線はめちゃくちゃに繋がれて天井からぶらさがっていた。電気がヒューズして大火事になりかねないというのに、そこから学校に通っている子どもたちまで住んでいた。

                   危険だからという理由で立ち入り禁止になっているアパートに連れて行ってもらったこともある。電気が切られているので真っ暗だが、中に入ると、階段の手すりに沿って、下から上までずらりと光る目だけが無数に並んでいた。そこでごちそうになったキャンプ用のコンロで作ったクスクスの味は忘れられない。「おふらんす」のイリュージョンで頭の中がいっぱいだった私にとって、現実をつきつけられた手痛い経験だった。

                   最後に会ったのは、私の祖父が亡くなった直後だったかもしれない。私は祖父母に育てられたようなものだったので、とても辛かった。そのことを話したとき、彼はこう言った。

                  「君が大好きだったお祖父さんは、次は、君の子どもに生まれ変わるんだよ。だから、はやく子どもを産んで、たくさん可愛がってあげればいい」

                   どんな丁寧なお悔やみの言葉よりも、この言葉が嬉しかった。

                   でも、今、アフリカはあまり元気ではなさそうだ。経済難は深刻になる一方で、2006年頃から、漁師の木船に乗ってでもヨーロッパに移民しようとするボートピープルが増えた。それで上陸できるなら良いほうで、遭難者も多い。「フランスで勉強したい」と書いたノートを持って飛行機の貨物室に乗り込み密航しようとして、凍死したふたりの子どももいた。

                  「溺れ死んだり凍死するような苦しい死に方をするかもしれないのに、怖くないのかな?」
                   こう問う私に、彼は呆れた表情で言った。
                  「白人って、なんでそんなに命を大切にするんだろう?」
                  「私は白人じゃないよ」
                  「でも、白人と同じこと言ってるじゃないか。その人がどう死ぬのは運命でもう、定められていることだから、怖がっても仕方ないと思うよ。それに、セネガルやコートジボワールみたいな、アフリカの中では比較的豊かな国でも、給料の90%が食費に消えちゃう。そんな人生、つまんないよ。蠟燭が消えていくように細々と死んでいくのなら、いっそのこと、一気に死んだほうがましじゃないか」
                   とBは言った。

                   冗談好きだったBとの思い出は、息が詰まりそうになるほど笑った思い出と、ぞっとするような悲しみ、心が溶けてしまいそうな幸福感と、救いようのないペシミスムとがないまぜになった、マーブル模様だ。

                  (注1)マグレブ諸国:アフリカ大陸の北西部にある諸国、アルジェリア、チュニジア、モロッコをさす。


                  ≪夏樹(なつき)/プロフィール≫
                  フリーランス・ライター。在仏約20年。パリの日本人コミュニティー誌「ビズ・ビアンエートル」や日本の女性誌に執筆。


                  | 『遠くからやって来たパリジェンヌたち』/夏樹 | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  第9回 あの日、言いたかったこと
                  0
                    遠くからやって来たパリジェンヌたち

                    連載『遠くからやって来たパリジェンヌたち』
                    文:夏樹(フランス・パリ)


                     サミアは、もしかしたら、私が今住んでいるアパートで初めて知り合った住人かもしれない。アパートの一階に住んでいた子どもで、学校から帰ってくると、いつも鼻をぴったり窓ガラスにくっつけて、日がな外を観察していた。金髪のクリクリ頭をリボンで結んだ、7歳くらいのときの面影がくっきり心に残っている。

                     お父さんのアレスキーは、今は無き仏産自動車メーカー、シムカの工場で働くためにアルジェリアからやって来た。60年代のことだ。その頃、フランスは安い労働力を必要としていたので、移民は大歓迎された。ちなみに、フランスの工業がどれほど移民の労働力に頼っているかというと、1945年以降に建設された住居の半数、高速道路の90%、機械は七台に一台の割合だということだから、ずいぶんお世話になっている。

                     私の20代のパリの想い出には、早朝、家を出て行くアレスキーの足早な靴音が鮮やかに残っている。春は小鳥のさえずりとともに去って行き、冬は凍てついた石畳を蹴るあの乾いた靴音を、早起きが苦手な私は、朝のまどろみの中で夢うつつに聞いた。奥さんのサディカは、アレスキーと結婚するためにアルジェリアからやってきた人で、肌が瀬戸物のように白かった。控えめで、敬虔なイスラム教徒の女性だったが、怒ると、なかなか凄みがある声音で口上を並べ立て、それに応じるアレスキーの声はあまり聞こえてこなかったから、よく言われる「イスラム教徒の男性はマッチョ」というのは、あまりあてにならない感じがした。

                     40年フランスで勤め上げ、年金で暮らしていけるようになったアレスキーにとって、たとえ祖国であっても、アルジェリアに帰るのはあまり気が進まないことだったらしい。でも、サミアをアルジェリアで育てたいというサディカの願いは強く、また専業主婦であった彼女には、フランスでの生活になかなかなじめないものもあったらしく、一家はサミアが小学校高学年のとき、祖国へ帰国した。

                     私がサミアに再会したのは、アルジェリアで高校を終え大学入学資格試験に受かった彼女が、パリ大学に入学したいと戻ってきたときのことだ。両親はアルジェリア人だが、彼女はフランスで生まれたのでフランスとの二重国籍、再入国に問題はなかった。眩しい18歳の娘に成長した彼女は、「アルジェリア? やだー、あんなド田舎で青春を台無しにしたくないわ」と言い、さっそく学校の登録手続きにとりかかった。

                     ところが、問題は住居だ。アレスキーは亡くなったばかりで女ふたりきり。サディカは今まで仕事をしたことがない女性だし、50歳過ぎている。アレスキーが残したわずかな年金だけで、パリで、アルジェリア人が住居を探すのは至難のわざだということを、彼女は知らなかった。国が管理している低賃金取得者用アパートもあるけれども、小さい子どもがたくさんいる大家族や、女ひとりで赤ちゃんを育てるシングルマザーがまず優先される。

                     それでも、一応ウェイティングリストに名前を連ねることだけはした方がいいと、一緒に市役所の生活保護センターに行った。番号札をもらって、満員の待合室で順番を待っているとき、サミアがふと言った。「でもさ、私、フランス籍なのよね。なんで、外国人がたくさん低賃金者用アパートに入っていて、私たちはだめなの? フランス人にまず入る権利があるはずじゃない」

                     まだ年若い彼女の言葉だ。責めることはしまい。差別される者同士がいがみ合う、先に移民してきたものが後から来たものを排斥するメカニズムはどこにでも存在する。去年、アフリカの数カ国からの移民だけに、生体認証を義務づける法案を議会に提出した国会議員は、イタリア移民の3世だったではないか。でも、富める国と貧しい国がある限り、移民はなくならない。人間の歴史は、私たちの先祖クロマニヨンの時代から、住みやすく食べるものがある場所へと移動する歴史の連続だったのだから。このことを彼女にいったいどう説明しようか、一瞬心が揺れたが、言えなかった。フランス国籍をもっていても、アルジェリア出身であることが一目瞭然である名前を背負って生きることが、この社会でどれだけ難しいか、それを私がわかってあげることは絶対にできないからだ。

                     フランスと旧仏植民地であるアルジェリアの関係はとても難しい。50年代、他の植民地のなかにはスムーズに独立した国もあったが、アルジェリアとはこじれにこじれ、仏軍による拷問が組織的に行われた独立戦争は泥沼化した。戦争は終わったけれども、その傷は、「お国のために」と思ってフランス軍に従軍した人々にも、また、拷問された父や祖父をもつアルジェリア系フランス人2世、3世の若者たちにもまだ生々しく癒えず、社会的な摩擦を生んでいる。

                     今、22歳のサミアは弁護士をめざしている。去年の末、妻が新婚初夜に処女ではなかったので結婚取り消しを法廷に求めたイスラム教徒の夫がいて、フランス中で喧々囂々(けんけんごうごう)だったが、彼女は、処女の価値なんてナンセンスと思っている今どきのイスラム教徒だ。恋人だっているし、煙草だって吸っている。ハラール食品(イスラム教の教義に沿って調理加工されたもの)でないマクドナルドのハンバーガーだって、もちろん食べる。「ママには言わないでよー、私がやることなすことにショック受けちゃって、かわいそうだからさー」と言いながら、青春を謳歌している。

                     いつか、わかってくれるだろう。私があの日、言いたかったこと。

                    ≪夏樹(なつき)/プロフィール≫
                    フリーランス・ライター。在仏約20年。パリの日本人コミュニティー誌「ビズ・ビアンエートル」や日本の女性誌に執筆。
                    | 『遠くからやって来たパリジェンヌたち』/夏樹 | 00:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    第10回(最終回) ウィリアムと心優しいテロリスト
                    0
                      遠くからやって来たパリジェンヌたち

                      連載『遠くからやって来たパリジェンヌたち』
                      文:夏樹(フランス・パリ)

                       最後にパリで会ったとき、ヴィクトールはアルマーニのスーツでめずらしくドレスアップしていた。「バーゲンで買ったんだよ」と小声で言って、ちょっとはにかんだ。「スーツがキマる」というより、50年代の白黒の仏映画に出てくる殺し屋みたいになってしまうところが、彼らしかった。両切り煙草を挟んだ、妙に節くれ立った太い指に、私の心がちょっと揺れた。

                       ヴィクトールの両親はスペインから亡命してきた。1939年、スペイン内戦がフランコ将軍の勝利で終わり、同時に独裁政権が始まった時のことだ。敗者となった共和派の人々、約10万人が、2月の真冬のピレネー山脈を歩いて越え、「自由、平等、友愛」をモットーとする隣国フランスに亡命を求めた。

                       こともあろうにフランス政府は、国境近くのアルジュレス海岸(注1)の砂浜に強制収容所を作り、そこに彼らを閉じ込めた。予告もなしに大量に押し寄せた隣人たちは、はた迷惑な存在でしかなかったからだ。

                       ヴィクトールの両親が最初に授かった赤ちゃんは、当時トイレさえなかった不衛生な収容所で流行った赤痢のために、生後まもなく亡くなった。

                       同時に第二次世界大戦の対独戦争に突入していたフランスは、男たちがみな徴兵されてしまったので、労働力を必要としていた。人手不足に悩む雇い主たちはアルジュレス海岸を訪れ、体格が良い男を選ぶために、牛馬市場よろしく鉄条網の向こうに若者たちを並ばせた。彼の両親もこうしてフランスでの仕事を見つけ、終戦後、ヴィクトールが生まれた。

                       スペインのなかでも、独自の言語をもつカタルニア地方出身であることを誇りにしていた両親は、フランスで生活しながらも、家庭内ではカタルニア語で話し続け、子どもたちはフランス語で返事をして育った。
                      「今だって、カタルニア語は聞いたらわかるけど、話すとたどたどしくなっちゃうんだ。それより、刑務所で習ったスペイン語のほうがうまいよ」

                       そう、ヴィクトールの人生は半端ではない。お父さんは、フランコ将軍から「テロリスト」として、欠席裁判で死刑判決を受け、二度とスペインに帰国することができなかった。そして、ヴィクトール自身もムショ帰りのテロリストだから、二代目ということになる。

                       フランコ政権は1975年まで続いた。37年間の長いファシスト政権下で、カタルニア地方独立運動は厳しい弾圧を受けた。何度となく血なまぐさい制裁を受けたにも関わらず、その勢いは弱まることがなかった。

                       70年代、ヴィクトールはフランスのスペイン国境近くに住みながら、祖国カタルニアの独立運動に参加していた。スペイン警察に追われた仲間がフランスに逃げ込むのを手伝っていた。

                       ある日、仲間から呼び出され、車で国境を越え、いつも集会に使っていた農家に行った。

                      「でも、その日は、なんか様子が違った。庭に大きな木があって、春だっていうのに小鳥のさえずりがひとつもしなくって、妙に静まりかえっていた。地面に新しいタイヤの痕がついていたから、それも、ちょっとおかしいなって思ったんだ」

                       車を降りて農家に向かって歩きだすと、武装した数十人の警官隊に囲まれていた。密告されていたということだ。

                       9ヶ月間バルセロナの刑務所に収容され拷問された。

                      「取り調べ前に警察署内の机の角に頭から突っ込んで、額を割って自殺する方法があって、そうすれば楽になれるって知っていたけど、できなかった。そんなときでも、命は惜しいもんだよ」
                       と言う。イラクのアブガライブ刑務所での米兵による拷問がスキャンダルになったときも、ショックを受けているみんなを尻目に
                      「戦争なんだから当然だろ。どこでもやってるよ、あんなこと。知らなかっただけだよ」
                       と言ってのけ、微動だもせずに遠い目をしていた。

                       しばらく前まで、シングルマザーのサビーヌと暮らしていた。彼女の連れ子ウィリアムにとって、ヴィクトールは「ママンの恋人」でしかないはずだ。しかし、ヴィクトールとサビーヌの間がうまくいかなくなって、二人が別れようとした時、10歳のウィリアムは
                      「僕はヴィクトールと暮らす」
                       と宣言をした。彼にはバカンスの間だけとはいえ面倒をみてくれる、親権をもつ実の父親がいるのだが……

                       それでも、10歳の子どもの頑固さというのは、ときには、法律さえ覆してしまう。結局、ヴィクトールとウィリアムが一緒に暮らして、母親のサビーヌは近くにひとりで住み、時々会うということに決まった。
                      「まったく迷惑なガキだ。ベッタリくっつきやがって」
                       そう言いながらも、満更ではなさそうだ。血はつながっていなくても、ここまで好かれれば男冥利につきるというものだ。
                       
                       定年退職したヴィクトールは、パリを引き払ってスペイン国境のすぐ近く、両親が強制収容されていたアルジュレス海岸のすぐ近くに居を構えた。「自分の両親が、吹きっさらしの冬空の下、家畜のように収容されていた場所のすぐ近くに住むの?」そう思った。辛くないのだろうか?

                      「俺は骨の随までカタルニア人だからな、スペイン国境近くじゃないと暮らせないんだ」

                       でも、それだけではないだろう。血はつながっていないけれども、心がつながってしまったウィリアムを連れて、フランスの不寛容と差別の象徴である強制収容所跡の近くにあえて居を構えることは、彼なりの強烈な、そしてシニックな抗議なのかもしれないと思うのだ。

                       「自由、平等、友愛」は自国民同士だけでのはなしで、亡命を求めてきた異邦人には手を貸さなかったフランスへの。

                       ちょっと見には、眼光鋭いどこかの組の親分で、チンピラに道を譲られてしまうヴィクトール。いまどきちょっとめずらしい、男気の匂うひとだ。

                      (注1)アルジュレス海岸:スペインとの国境近く、地中海沿いにある海岸。夏はリゾート地として、ヨーロッパ中のバカンス客で賑わう。

                      ≪夏樹(なつき)/プロフィール≫
                      在パリ・フリーライター/最後まで読んでくださったみなさん、御多忙中にもかかわらず校正し、正直な意見をいってくださった編集部のみなさん、どうもありがとうございました。
                      | 『遠くからやって来たパリジェンヌたち』/夏樹 | 00:05 | comments(1) | trackbacks(0) | - | - |
                      CALENDAR
                      SMTWTFS
                            1
                      2345678
                      9101112131415
                      16171819202122
                      23242526272829
                      30      
                      << September 2018 >>
                      SELECTED ENTRIES
                      CATEGORIES
                      ARCHIVES
                      RECENT COMMENTS
                      RECENT TRACKBACK
                      MOBILE
                      qrcode
                      LINKS
                      PROFILE
                      このページの先頭へ