2008.04.25 Friday
第9回 「南島旅行」その二
文:いそのゆきこ(ウェリントン・ニュージーランド)
南島西南端、氷河の浸蝕作用で出来たフィヨルドランド。私たちはここで3泊し、14ある峡江のうち、観光船が出ているダウトフル・サウンドとミルフォード・サウンドに出かけました。
ダウトフル・サウンドは、マナポウリ湖を横切ることから始まります。朝靄の湖に浮かぶ小島の間を、たった一艘で漕ぎ出すと、何だか早くも妙な気持ち。船のエンジンを止めると、辺りはひっそり。マナポウリとは、不安で悲しい心を意味するマオリ語だとか。一方で、壮大な水墨画の懐に抱かれているような懐かしさもあって、蕩けるような心地良さに浸り、
「霞み渡れる朝ぼらけ、長閑に通ふ舟の道…」
の謡と共に、竹生嶋のツレとシテが登場してくるような気さえするのでした。
バシバシッと雨粒が船のガラス窓を叩き付け、はっと我に返えると、船はウェスト・アームという入江の船着き場に止まっていました。ここに地下発電所があるのです。
船着き場からバスに乗り換えて、湖とダウトフル・サウンドを結ぶ道、ウィルモット・パスを行きます。人里離れたここに発電所を建設した60年代、機材運搬用に造られたとのこと。
と、もう私の目は道端に奪われました。ここは世界有数の多雨地帯、道の両側は自然が造った苔庭で、日本の庭師も舌を巻くほどの出来映えなのです。
降雨林は、リムなどマキ科の針葉樹が常緑の南極ブナと共に密生し、シダ類が生い茂っています。絡み合った根の下は氷河に削られた岩床。むき出された岩肌に苔が生えて厚い層を作り、木が育ちます。木は岩の上の柔らかな苔の中に生えていますから、雨が降ると、苔は大きくなった木を支えきれなくなって、木と共に岩の上を滑り落ち、絡まりあった根で木々は将棋倒しに滑ります、木雪崩です。岩肌がむき出しになり苔が生えて…を繰り返えす周期は100年から200年くらいだそうです。それが太古の昔から続いている原生林。誰かが「ジュラシック・パークだ」と叫びました。ところがここは今、趣味の狩猟目的で放された赤鹿とポッサムが繁殖して、森林破壊が深刻です。
バスはディープ・コーブ桟橋に着きました。ここから大型船に乗り換えて、いよいよダウトフル・サウンドに船出です。外海まで全長40キロ、両側の切り立った崖を見上げれば、雨で誕生したばかりの大小無数の滝が、迸り落ちています。
乗客の思いは、一瞬なりとも絶景を見逃したくない、の一つ。みな船室で弁当を開いたものの、食べる間も惜しく、大急ぎでサンドイッチを頬張り飲み物で喉に流し込み、甲板へ出ようとした時でした、船がグラグラッと左右に揺れ、窓を打つ飛沫で外は全く見えなくなりました。席に戻った乗客の顔は蒼白、目はとろり、むっと両手で口を押さえる人も出てきました。
気がつくと添いあいがいません。近くにいた人が甲板の方を指差しました。呼びに行こうと戸を開けた途端、雨風がどっと打ちつけ、グラッと足下が揺れ、私は転倒して甲板に投げ出されました。その拍子にポケットからデジカメが飛び出し、バサッとかかった波飛沫と共に海に消えました。ドラム缶のように転がり、何かにぶつかり、また転がる私の腕を、誰かがグィと掴みました。乗組員の大男でした。私を助け起こして船室に連れ戻してくれたのです。その間にチラッと目に入ったのは、ただ一人、帆柱にしがみつき雨飛沫をかぶりながら夢中で写真機を覗いている添いあいの姿でした。
「あの人に中に入るよう言ってください」
と頼んだのを聞いてくれた乗組員が戻って来て「彼奴はだめだ。言うことを聞かない」と首を振りました。
毛皮欲しさの乱獲により絶滅しかけたオットセイの生息地辺りで、ようやく雨が小降りになった頃、添いあいが船室に戻ってきました。びしょ濡れの髪から雫をしとしと垂らしながら、まるで少年のように嬉々として言いました。
「いゃー凄い、最高だ。もし雨が降らなかったら、この豪快さは半減したよ。今日はついている。どうして甲板に出て観なかったの。こんなところは滅多に来られないのに、中で死んだような顔をしているなんて、気が知れない」
それも束の間、日が射し滝に虹がかかると、食べかけのパンを投げ置いて、飛び出して行きました。
「元気だね、彼は俺の爺さんみたいだ」
と、テーブルの向こうのでっぷり太った年配の人が片目をつぶり、「俺たち、ニューベットフォードから来たんだ」と続けました。
「モービー・ディック(白鯨) の」と私が言うと、
「そう、俺たちの先祖は鯨取りさ。爺さんの足跡を辿ってここまで来たけど、こう揺れたんじゃ、全く足腰が立たない」と嘆いたのは、隣に座っている白髪の人でした。
大自然の静と動を見せつけられた一日、ぐったり疲れた体の奥底から、何かしら大きな感動が沸き上がってくるのでした。
注:ニューベットフォードはマサチューセッツ州の海港、かつての北米捕鯨の中心地、メルヴィル著「白鯨」の舞台
≪いそのゆきこ/プロフィール≫
ニュージーランド・ウェリントンに移り住んで四年、海外在住ライター広場や地球丸に参加。生活の中で、折々目にし、耳にし肌に触れることを、鉛筆を舐め舐めひらがなを思い出しながら書かせてもらっています。著書: BBC Talk Japanese
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